9月5日に滋賀県平和祈念館での歴史セミナー、「なぜ、アジア・太平洋戦争の開戦は回避できなかったのか」一橋大学大学院 教授 吉田 裕 氏を聴講した。多くの貴重なデータに裏付けられた講義に歴史認識を新たにした。
今回、私が知らなかった史実がいくつか得られた。その一つに、太平洋戦争初期においては、米軍よりもオーストラリア軍と日本軍との戦闘が主流だったということがある。1943年からは米軍の戦争準備が整い日本軍との戦闘が増えたようだ。オーストラリア軍との戦いであったニューギニア戦線が太平洋戦争の分岐点ではないか。という視点である。確かにが真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦、ガダルカナル作戦など初戦の日本軍の目的は、米軍とオーストラリア軍の連携を太平洋において分断することにあったとされる。昭和17年、18年に、日本軍はオーストラリアの空軍基地を中心に空爆も行っている。戦後のオーストラリアの対日感情がすこぶる悪かったのもこのためである。日本の教科書にそのことの記載がないことに対してオーストラリア政府から日本に申し入れがあったということだ。
もう一つの話としては、年代別の戦死者のデータに関することである。この大戦における日本側の戦死者は兵士が230万人、一般市民が80万人であるとされている。しかし いつどこで何人の方が亡くなっているか、詳細データが無い。驚くことに日本国家に命をささげた人がいつ、どこで、どのように亡くなったのか、国家としてのデータがないのである。戦後もこの調査は進んでいないし、戦地での遺骨収拾も進んでいない。戦争記憶の風化が進み、調査は難しくなっている。唯一残っているのは岩手県内の戦死者統計である。それによると岩手県では終戦前後1年間に全戦死者の90%近くの人が亡くなっているという。日本全国で見ても、一般人が多く殺されている東京大空襲をはじめとする都市空爆、沖縄地上戦、広島、長崎への原爆投下、ソ連の侵攻、シベリア抑留など終戦前後の死亡者が多い。これらはすべて昭和20年に入ってからの死亡である。このデータからは、日本は戦争を早期に終了させることが出来なかったことで、甚大な犠牲者を出してしまったことがうかがえる。今からでも戦争を行った国家の責任としてこの調査をしっかり行い未来への負の遺産とするべきであろう。
この講演会会場には60名を超える多くの市民が参加し、質問コーナーでは活発な質疑があった。みなさん歴史認識に関しては熱心である。私も専門家の意見が聞きたくって質問をした。
(私)「自分はなぜ 日本が桁違いの国力を持つアメリカに対し戦争を仕掛けたのか今でも疑問に思っている。援蒋ルート封鎖のため、1941年の南部仏印への日本軍の進駐が一つの原因であると思っている。・・中略・・この進駐に対しての理解に日米双方に大きな齟齬があったのではないか」という私の持論に対して先生のご意見を聞いた。先生の反応は少し意外であった。
「南部仏印への日本の進駐を正当化するのは間違いで それは当時の陸軍がでっち上げた虚構である。ただし 米国などの国際社会に対し孤立していた日本が国際世論を味方につけられなかった。中国は巧みに国際社会を味方につけていった点は原因の一つになろう。・・・」
私の質問の意図と結論は変わらないが私が話した歴史認識の少しの違いに講師の方が反応された点に少し驚いた。講師の先生の立場をネットで調べるといくつかの点が明確になった。先生は最近の世論の右傾化を憂慮されている点、南京虐殺に関しては10数万人の犠牲者があったという立場をとっている点、天皇の戦争責任を注意深く追及している点などがわかった。リベラルな立場をとられている学者さんなのだ。
私個人としては現在の政治的な立場、イデオロギーによって偏向したの歴史観を持つのはのはいかがなものかと思う。現在ネットをたたけば極端に右傾化した論調が目立つ。彼らは南京虐殺や慰安婦問題はなかった、左派や近隣諸国のでっち上げだとしている。日本の過去の戦争は自存自衛の戦いであり日本は無罪であるとする論調が多い。その延長線上に安保法制議論もある。現実的に軍事力に頼らなければ日本を護れないとする立場である。政治的に対立するリベラル派を非難し、最終的には改憲を目指す。かたやリベラルな立場の人たちは、加害者としての過去の歴史に着目する。中国や韓国との間の歴史認識問題に関しても先方の論理を鵜呑みにする傾向がある。右派が軽蔑する自虐史観である。両者の議論の開きに戸惑いを感じる国民も多いのではないだろうか。マスコミを含め両者の接点を探ろうとする動きはほとんど見られない。結局 安保法制は参院で強行採決されてしまった。両者の主張の違い、その根幹は何なのか、なぜ双方が歩み寄れないのか。テクニカルな議論に終始している国会答弁、国民の理解が進んでいないと両者とも認識している。今回の安保法制議論での国民の混乱の真の原因は、両者のギャップの大きさにあるのではないだろうか。それは過去の戦争に対する歴史認識から始まり、両者の根本的な世界観が違うためである。国会ではなぜそこに踏み込んで議論できなのだろう。そこには未だ歴史のタブーがあるのではないだろうか。民主主義は単なる多数決ではない。安保法制強行採決の後味の悪さはまだまだ後を引きそうだ。