私の父は1945年5月、16歳で旧満州の鞍山の製鉄所に就職し、そこで終戦を迎え翌年日本に引き揚げてきた。父の2つ上の兄、私の叔父にあたる漳次郎は同じく1945年5月に関東軍軍属として旧満州チチハル近郊の航空隊に配属となった。同8月9日突然のソ連軍侵攻を知り航空隊は満州国内を敗走する。ハルビン平房で終戦を知り武装解除、ソ連軍の監視のもと満州各地を使役として引きまわされる。12月ハルビンで職を得るも1946年1月発疹チフスにかかり職場を追い出される。香坊収容初で病臥するも奇跡的に回復する。2月収容所が中国人暴徒に襲われ、手りゅう弾で左足の指をすべて失う大けがを負う。病院での静養後10月日本に引き揚げてくる。戦後は京都に職を得たが満州での苦労がたたったのか1953年26歳の若さで他界している。1949年22歳の時にこの満州での経験を「満州放浪記」として綴っていた。その原稿が2001年に実家の土蔵で突然発見され、弟の父親が自費出版したのがこの「満州流民」という本である。

ソ連軍の侵攻が始まる前の満州は空襲や戦闘といったものは無く、比較的平穏であった。少なくとも統治者である日本人には平穏な土地であった。しかしソ連軍の侵攻ですべてが一変した。この体験談には、敗走する日本人難民、捨てられる赤ん坊、葬られることのない日本人の兵士の死体、身近な友人の死、暴徒と化した満州人、日本人を拘束するソ連兵などが鮮明に描かれている。経験したものしかわからないリアリティがある。戦中には侵略者として中国人を抑圧してきた日本兵やその庇護にあった日本人入植者がソ連の侵攻によって立場が180度反転したのである。軍人ではなく軍属であった叔父はシベリアへの抑留は免れた。しかし、支配者の頂点でもあった関東軍将校や兵士たちが満州の各地に集められ、順次列車に詰め込まれシベリアに送られるシーンはなんとも悲しい。彼の文章には何度も「負けたのだから仕方がない」という表現がある。いつ死ぬか殺されるかわからないような事態においても「不思議に死ぬのは怖くない。しかし 故郷の親を思うとどうしても日本に帰りたい。それが生きる力だ」というメッセージがひしひしと伝わってきて読むものの胸を詰まらせる。無謀な戦争を始めてしまった大人たちへの怒りが随所に溢れる。彼は軍国少年ではあったが、当時としてはかなりリベラルな思考の持ち主であったことがうかがえる。当時の青少年たちはひょっとして今考えられているよりずっと客観的に世界を見通していたのではないだろうか。
私が生まれるのは叔父の死後5年後なので当然本人とは出合っていない。彼は長男だったので彼が生きていたらひょっとして私は生まれていないかもしれない。彼と私は時間的には人生を重ねることはなかったのだが50年の時をまたぎ、この本によって何かが繋がった感じがする。すくなくとも彼の言葉は私の心を強く揺さぶる。こんな馬鹿げた戦争は2度とするなよというメッセージをしっかり受け取った。
彼と同時期に満州に入植した私の父も1946年秋に日本に引き揚げてきている。満州では兄と同じようにソ連軍の侵攻や暴徒により何人も友人を亡くし、荷物は彼らの遺骨だけというありさまだった。友人や上司に支えられて引き上げまでの期間を過ごしたようである。日本に帰りたいという思いだけが命を支えたのだろう。そんな父も86歳。 今は痴呆がすすみ当時のことを話すことも出来なくなってしまった。戦後 日本に帰ってくると彼は猛烈に働いた。それは私腹を肥やすためではないことは子供ながらによくわかった。しかし何のために彼はこれほどまでに他人に尽くすのか私には理解できない部分が少なからずあった。私もいい歳になり、今ではなんとなくわかる気がする。父たちは満州で無念にも死んでいった友人たちの分まで生きようとしたのだ。自分達を生きて日本に帰らせてくれた恩人たちに報いるため必死に働いたのである。そして 多くの日本人にとっても同様に、戦争に負けた屈辱感が日本の経済を再生させた原動力であった点は見逃せない。同胞の命を背負ったその意志の強さは筋金入りだ。
現在 病の床にある父は一日も欠かさずこの兄の遺稿を抱きしめ眺めている。痴呆が進んでも終戦前後の満州での記憶は決して消えないものなのだろう。この本の内容は出来るだけ多く人に読んでほしいので近々PDFファイルにして公開する予定だ。アマゾンでは入手できない。