車にゴリゴリと穴をあけバッテリーBOXをボルト止めする。大工仕事のようでとても自動車整備とはいいがたい。そして 車のトランクに24個のバッテリーを突っ込み金具で固定する。これで重量が200kg増える。容量は36Ahで24個、10.36kwの計算になる。
2015年10月30日
改造電気自動車モーター始動!
2015年10月26日
シベリア抑留の記憶と国防の要
舞鶴市をゆっくり見学した。最近 シベリア抑留と引揚げの記録がユネスコの世界記憶遺産として登録が決定した。旧満州に若くして入植し、そして大変な思いで引揚げてきた私の親父と叔父のこともありぜひとも訪れたい街であった。かたや現在の舞鶴は海上自衛隊の重要拠点の一つでもある。天然の良港として旧海軍の施設を引き継ぎながら近代的な軍艦が並ぶ。戦争の悲惨な歴史を持ちながら、国防の最先端基地という両極を担うこの街は、その二つの事柄が不思議に融合しこの街の独特な雰囲気を醸し出している。
引揚記念館は多くの来場者で賑わっていた。
この引揚記念館の設立にあたっては多くの引揚者が資金を捻出して建てられたそうである。
シベリア収容初での悲惨な生活。少ない食料を天秤棒を用いて分配する。毎日おおくの人が亡くなっていった。シベリア抑留者の正確な人数は把握されていない。
厚生省はソ連抑留者57.5万人、6万人以上が亡くなったとしている。未だに正確な数が判明していないことは大きな問題だ。関東軍という国家の軍隊に従軍していたことを理由にソ連やモンゴルに不当に連行され、数年の過酷な労働に従事させられた。これは戦争終結の条件を定めた「ポツダム宣言」に完全に違反している。
記録するものはすべて取り上げられていたので、白樺の皮に、缶詰の金属破片を用い、木のススを水に溶かして綴られた「白樺日誌」。抑留者は自らの体験を何とかして後世に残そうとした。
当時の引揚桟橋は撤去されていたが、平成になり再現された桟橋。多くの人が祈りを捧げていた。この桟橋に降り立った引揚者は66万人。日本の引揚港が閉鎖されていく中、昭和33年まで13年間にわたりこの港は引揚者を受け入れていた。
街の中心部に赤レンガパークがある。100年以上前に建てられた10棟の赤レンガの建物が並び当時の雰囲気を醸し出している。
海軍記念館。現在も海上自衛隊の施設となっている。東郷元帥をはじめ、日本海軍の記録が多く展示されている。
北吸桟橋に並ぶイージス艦とヘリ搭載艦。この桟橋の長さは1000mもある。
へり搭載艦 「ひゅうが」
五老岳から見る舞鶴湾。深く入り組んだ地形は天然の要塞であることがよくわかる。
昭和20年の敗戦によって海外に残された日本人は660万人にのぼった。とんでもない数の難民である。彼らが民族の大移動として日本本土に帰ってきた。そこでは再会の喜びとともに大きな混乱が存在したことだろう。現在シリア難民がヨーロッパに押し寄せている。どこか他人事のように見ている自分がいる。しかし 70年前の日本人も同様にすごい経験をした歴史を持つことを忘れてはいけない。