2015年12月03日

僕はなぜBeatelsが好きなのか?

 僕が中学一年の時 うちにはレコードを再生するプレーヤーがなかった。貧乏だったのだ。1971年のことだ。テレビでは東芝BostoneのステレオのCMになんとBeatlesの「Let It Be」の画像が流れた。僕はしびれた。僕の友達に増せたやつがいて彼は近所のレコード屋でBeatlesの[Let It Be」のシングルレコードを買った。僕とBeatlesの初めての出会いだった。彼の家でBeatlesを何度も聴いて何度も感動した。当時僕は自分で作ったラジオでAMやFMから流れる音楽を夜遅くまで聴いていた。そんな僕を見ていたのか、しばらくして親父が小さなレコードプレーヤーを買ってくれた。(その後 父親が買ってくれたのは、ピンカラトリオの「女の道」とちあきなおみの「喝采」のレコードだけだった。)でも僕はうれしかった。おこずかいを貯めて、すぐに「Let It be」のシングルを買った。よく響く家のお風呂場にプレーヤーを持ち込み擦り切れるまでレコードを聴いた。そのあとも Baetlesのレコードを買った。Hey Jude、Yestaday・・・。でも当時既にBeatlesはもう解散していたんだね。

 同じ年 NHKで「70年代われらの世代」って番組があった。「自由、戦争、エネルギー、公害、SEXなど社会問題、国際問題」がテーマだった。今から思えば革新的な番組だったと思う。今のNHKは見習ってほしい。当時はベトナム戦争が当たり前のようにあって、この先世界はどうなるのだろうって時代だったと思う。この番組のなかで悲惨な戦争を論じながら画像のバックに流れていたのがJoneの「Imagine」だった。子供ながら なんと 心うずく曲なんだと思った。涙が出そうになった。NHKの解説者が「このビートルズの曲のように本当に世界が平和に暮らせる日が来るのでしょうか?」と番組を締めくくった。僕はその日からJoneのファンになった。中学校時代のおこずかいはすべてBeatlesのレコードの購入に充てた。

 高校時代は、当然音楽にはまった。ブラスバンド部に入った。Beatlesの曲を演奏するのが楽しかった。時代はフォークソング全盛時代だったので僕はちょとずれていた。でも友達にはBetlesが好きなやつもいて結構楽しかった。そして衝撃の1980年。 JoneがNYにて撃たれて死んだ。僕は大学生になっていた。食堂で聞いたそのニュースは、僕の中で一つの時代が終わったのだと思い知らされた。

 時は過ぎ、ジョージハリスンが癌で逝き、僕はアメリカに住んでいた。アメリカのスーパーマーケットで買い物をしていると、たまにBeatlesの曲がかかる。そこでは奇妙な光景が現れる。年配の人たちが買い物を忘れ、曲に合わせその場で踊っているのだ。アメリカではBaetlesが活きていたんだと思った。若い人も踊らないまでも体がのっている。戦争をやっている国とBeatlesは共存するのだろうか。少なくともアメリカでは両者にリアリティはあるかな。
 もう一つエピソードを。会社で僕の隣に座っていたインド人技術者は、若いのにBeatlesファンだった。なぜかなと思って聞いてみると、彼の叔父さんは、なんと1967年にBeatlesがインドを訪問した時に彼らに直接、あったそうだ。そしてファンになった。彼の叔父さんは、Beatlesのレコードをいっぱい買い、彼に聴かせた。そして彼はBeatlesファンになった。当然彼と僕とは意気投合した。
ポールは今でもカリフォルニアには2年に一度は来るそうだ。 彼は欠かさずコンサートに駆けつける。若い女性技術者も同じようにファンなのでびっくりした。私がニューヨークに行ったとき絶対に行かなければならないと思ったのは、Jonが撃たれた、セントラルパークとダコダハウスだった。53歳でここにやっと来れたと思った。一生来れないかとも思っていた。ここに来れた僕は幸せ者だ。セントラルパークにあるストロベリーフォーエバーという広場は静粛な場所だった。Batlesの曲を静かに奏でるギターの演奏者がいて、そこに居るみんなが心を鎮めていた。不思議な空間だった。

 僕の人生でBetlesは特別な存在だ。カラオケに行けばまずJoneの「Woman」を歌う。他人の評価はどうでもいい。それは僕にとって儀式であり、礼儀でもある。歌って自分の存在を確かめる。僕が僕である証拠を確かめる。気分が落ち込んだ時はBeatlesを聴くようにしている。彼らは今でも僕に叫んでくれる。「気楽に生きろよ!どうにかなるさ!」ってね。



posted by kogame3 at 01:50| Comment(0) | 日記

2015年11月19日

「満州流民」の不思議なご縁

 私には小学校の頃からの友人が5人ほどいる。よく酒をのみ、たわいのない話をし、人生を語り合ってきた。それぞれ 進学先も就職先も違っていたが気の合う仲間たちだ。その中でひときわY君とは小学校からよく遊び、お互いのうちで夜明かしで語り合ってきた仲である。もう50年来の付き合いになる。かつてY君のうちにはかわいいお婆さんがおられた。1984年、25歳になったY君と私は、テントひとつ車に積んで九州放浪の旅に出ていた。その旅から帰って来るとなんとそのお婆さんのお葬式の真っ最中であった。携帯電話のない時代、連絡のすれ違いであった。Y君はなんとか出棺に間に合い面目を保った。亡くなったお婆さんには一人息子がおられたが昔戦死されたという話であった。戦後、いまのY君のお父さん(すでに故人)が養子に入られたそうだ。


 話はかわるが、私の親父と叔父はともに昭和20年の春に満州に渡り、親父は鞍山の製鉄所に就職、叔父は軍属としてチチハルの航空部隊に配属となった。親父は、16歳の若さで同じ神崎商業学校の同級生8人と集団就職したようだ。昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻、つづく15日の終戦で満州の事態は一変した。それまで 支配者として満州の土地で君臨していた日本人の地位は地に落ちた。それまで強いられたげて来た満州人たちが暴徒と化した。そこに侵攻してきたソ連軍が加わり、日本人に対する、暴行、略奪、恥辱はひどいものであった。それまで無敵を誇った関東軍はいとも簡単に敗退し、入植した日本人さえも護れないありさまであった。昭和20年9月9日父たちのいる製鉄所の寮も満州人の暴行・略奪にあい、数名の同僚が惨殺された。父と同郷の親友2人が亡くなった。その後、住んでいた寮も中国共産党軍(八路軍)に接収され、父たちは満州を放浪することになる。父は運よく製鉄所の技術者家族の家にかくまわれ、翌21年の秋に生きて日本に引き揚げることができた。荷物は、殺された仲間の遺骨が入ったリュックが一つだった。


 父はこの時の体験を息子である私に直接話すことはなかった。そして今は痴呆が進み、もう話すことも出来なくなってしまった。ただ、この時の体験は父の脳裏に強く刷り込まれたのだろう、叔父の遺稿である「満州流民」の出版の解説の中に書き込まれていた。先日 Y君といつものように飲んでいるときにこの話になり、戦死されたとされる彼の叔父さんの名前を聞いた。私はその名前を聞いたときにひどく驚いた。なんとその名前は、私の父が満州で亡くした友人の一人、その人であったのである。親父と亡くなったY君の叔父さんとは満州で親友だったのである。不思議な縁を感じた。


 私の叔父は、満州でソ連軍に使役に使われ、病床に倒れ、暴漢に襲われ足を負傷し命からがら引き揚げてきた。そして若くしてこの世を去った。叔父は長男だったのでもし彼が生きていたら今の私は生まれていなかったかもしれない。満州で亡くなったY君の叔父さんも長男だったので もし生きておられれば今のY君は生まれていなかったかもしれない。そう考えると、私とY君とのご縁はますます不思議なものに思えてくる。かくしてかつての戦争は戦後に生まれた私たちの運命にも影響を与えている。無念にも若くして亡くなられた2人の叔父たちに合掌。2人を引き合わせてくれたご縁に感謝である。


posted by kogame3 at 17:44| Comment(1) | 歴史認識

2015年11月08日

改造電気自動車を動かしてみる

モーターが回ればタイヤを回し、タイヤが回れば車を動かせたくなる。この焦りはモノづくりに従事した人間の共通の性であろう。さっそく車を馬から降ろし動かしてみる。





アイドリング回転数900rpmでは、クリープが強すぎる。トルコンには十分オイルが回ったようだ。滑りは感じられない。バッテリーが重すぎて後ろが5cmほど車高ダウンしてしまったようだ。

IMG_6298_1600.jpg
2cmほどのスペーサーを作成し挿入してみた。

IMG_6344_1600.jpg

ちょっとましになった。
IMG_6346_1600.jpg

こうなれば 早く車検をとって公道を走りたい衝動に駆られる。

モノ造りは一つ前進すると10個の問題点が新たに見えてくる。今回のテストランで、ブレーキの倍力装置の真空圧不足、スピードメーター不動、電気系統の不具合、DC-DCコンバーターの破損などが見つかった。コントロールBOXを直ちに製造メーカーに返品である。モノづくりを楽しむということは、これらの不具合をひとつづつ克服していくプロセスを楽しむということだ。真の原因がわかれば対策が打て不具合は再発しない。失敗から学ぶということだ。

ものづくりには「忍耐」という根性と「バカ」といわれる他人の目を乗り越える根性が必要だ。
リスクばかりを想定し不安がり行動しないと何も見えなくなる。行動して初めて見える世界もある。ただし リスクを考慮しない行動は無謀でもある。この兼ね合いが人生ということだろう。
posted by kogame3 at 11:52| Comment(0) | 改造電気自動車W140