2015年10月20日

2015年 桟敷窓アート展 

今年も恒例の桟敷窓アート展が10月17,18日に開催された。旧日野地区の文化的活動や歴史的なものを展示している。桟敷窓を外から覗く文化祭というところだろうか。

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桟敷窓があるお宅は積極的に窓を開けて街中の雰囲気を盛り上げる。

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本町はこれも恒例の曳山の展示とお囃子の演奏を行う。

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こちらはマンネリ化した感じがある「焼き鳥」と「日野うどん」の即売を行う。今年は天気も良く 売り上げも原価トントンであった。

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売り上げは お昼の一時間だけが勝負。

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ご婦人方の頑張りで伝統の日野うどんを再現しています。

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繁盛繁盛。町長もおいでです。

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クレイスタジオ クリさんのお宅を訪ねました。4年前に早世された先輩の後をついで娘さんが立派にやっておられます。奥さんと昔話を長々としてしまいました。

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木工の展示もありました。

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拙宅は相変わらずの「あみぐるみ展示」です。家内が展示しています。

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本町若衆によります祭り囃子、フルバージョンです。

posted by kogame3 at 10:32| Comment(0) | 文化

2015年05月05日

日野祭

 5月3日は私の住んでいる滋賀県蒲生郡日野町で日野祭がおこなわれる。この祭りは800年の歴史がある。ある人は日野の町角に信長の娘、冬姫の影を見たという。例年、この祭りはゴールデンウィークの真っただ中にあるため、日野町に生まれ、綿向神社の氏子となった人々はこの連休にどこにも遊びに行けない。そのことを不都合に思う人と、だからこそ楽しもうとする人がいる。私も若いころ、それを重荷に感じた時代もあるが、今は楽しまなければ損だと思うようになった。運命に対抗する方法は運命を楽しむしかない。

 朝8時 「お稚児さん」と呼ばれる神子(6歳の男子3名)が多くの警固に守られながら神社に向かう。そのあとを追うように各町内の曳山が神社に向かう。動画はこの曳山が町角を曲がるときに行われる「ぎんぎりまわし」の様子である。曳山はその重心に一本の芯棒が地面に向かって突き出している。曳山をテコでジャッキアップしてこの芯棒と地面との間に硬い木のスペーサーを挟み、四輪を浮かせる。そして細心の注意を払い曳山をゆっくり回転させる。

 曳山は16基が現存する。それらはかつての日野商人達が財を成し、それを惜しげもなく使った豪華なものだ。彼らは質素倹約を旨とし、この地を離れ、一生懸命働き一年を過ごす。そして、年に一度のこのお祭りのために贅をつくした。彼らは時を越え、人生とは文化の為に生きることだよ、と私たちに教えてくれているようだ。

 曳山が綿向神社に到着すると宮入の前に、神子であるお稚児さんに境内に入ることの許可を得る儀式がある。「花警固」と呼ばれる曳山の使者が挨拶に行く。今年の本町の使者は、町内の女性と結婚した海外の男性である。この日の為にオーストラリアから帰国した。挨拶を失敗するとやり直しを食らう。彼は前日から町内の若衆に口上の特訓を受けていた。ドキドキの瞬間だ。日野祭は礼に始まり礼に終わる。



 曳山の屋上には、ダシとよばれる人形が飾られ、各曳山がその出来栄えを競い合う。

 神輿は3基ある。神輿は祭りの花である。重い神輿は担ぎ手の肩をたたきつけ、彼らの肩は腫れあがる。日頃おとなしい現代の若者もこの日ばかりはそのエネルギーを爆発させる。動画は、拙宅の前を通過する村井の神輿と宮入する神輿を曳山の屋上から撮影したものである。その迫力に、やはり感動と興奮を覚える。

 夕方 日が落ちると曳山を町内に引き下げる。提灯に明かりが灯り、曳山が列をなして通りを下るその光景は、祭りの興奮を静かに閉じるかのように哀愁を帯びている。祭り囃子もそれを演出するように優しい調子に変わる。

 この祭囃子は日野商人達が、遠く関東秩父などから持ち帰ったものとされる。その調子は京都祇園や長浜のそれとは違い関東風のリズミカルなものである。毎年4月に入ると毎晩のように各町内でこの祭囃子の練習が行われる。子ども達は、町内の先輩や親の世代から囃子を受け継ぐ。お祭りの楽しみ方も同時に受け継ぐ。やがて子ども達は大人になり、日野の地を遠く離れても、故郷のこの祭りを思い出し懐かしむ。昔の日野商人のように。日野祭は老いも若きも、金持ちも貧乏人もない。みんなが平等に祭りを楽しむ。じつに良い祭りだ。

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前日5月2日には西之宮祭と日野祭宵宮が行われる。若衆の熱気でこの夜は最高に盛り上がる。

西之宮の神輿は少ない氏子でこの重たい神輿を担がねばならない。

越川町 新町 本町の曳山が、越川町にある旧正野感応丸薬局前の広場に結集し、囃子を競い合う。宵宮の夜は日野町の各地でこのような曳山の結集で盛り上がる。なお 感応丸は日野が生んだ全国ブランドの薬である。かつては日野商人がこの薬を全国に行商して歩いたとされる。


 下のフィルムは昭和33年以前に撮影された8ミリフィルムです。私の叔父が撮影したものだと思います。私の生後半年の動画の前に撮影されていました。なんとカラー映像であることに驚きます。いまの団塊の世代が子供だったころの映像でしょうか、神輿に沢山の子ども達が映っています。戦争が終わり平和な時代がやってきた証でしょうか、皆さん明るい表情です。動画の視点の高い位置からの撮影は日野町村井本町の曳山の屋上からの撮影です。本町の山倉は平成2年に今の場所に新築しています。その前は、呉服町の辻にありました。そこから本町通りまで曳山を引っ張り出してきていました。その地点からの撮影です。当時の女の子がきれいな洋服を着ていたり、ほし店やでブリキのおもちゃや風車が売っていたりして楽しい動画です。ひばり野に一基 曳山があります。今井町でしょうか。いろいろコメント頂ければ幸いです。

posted by kogame3 at 09:55| Comment(0) | 文化

2015年04月02日

蒲生氏郷

 我が家の斜め後ろには 「信楽院」(しんぎょういん)というお寺がある。蒲生家の菩提寺である。

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現在 本堂は大改修中である。本堂の天井には、日野町出身の著名な画家、高田敬輔(たかだけいほ)作の水墨画が描かれている。巨大な竜が荒れ狂うさまを描いた「雲竜(うんりゅう)」を中心に縦横11mの大きさがある

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私は子どもの頃、その迫力に恐ろしさを感じていた。

そして、この 日野の地で生まれた最大の歴史的ヒーローが、蒲生氏郷であろう。
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今も彼が生まれたときに使った産湯の井戸が日野城址(中野城址)に残されている。

 彼は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、1556年生まれ 幼名 鶴千代。幼少期 信長のもと岐阜城に人質に出される。信長は彼の才能を早くから見抜いており信長の次女 冬姫を妻にとらせている。キリシタン大名でもありクリスチャンネームはレオン。本能寺の変の折、彼は信長の家族をかくまい、日野城(中野城)へ走って手勢500騎、輿50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。安土を攻めた光秀の一派は次は日野城攻めという寸前、光秀が山崎で倒れた。その後 氏郷は秀吉に仕え、天下統一のため奔走する。1584年に伊勢の国12万3千石を与えられ1588年松坂城を築城した。日野から近江商人を呼び寄せ、松坂の中心に住まわせ楽市楽座を設けた。一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守を有するこの城は、氏郷の幼名(鶴千代)にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。

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我が家から300mほど東に進むと日野町最大の中心的な神社である綿向神社がある。例年5月3日に、日野町の人口には似つかわしくないほど盛大な日野祭りが営まれる。

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今も、あおあおと茂る神社参道の杜は当時をしのばせる。

 氏郷は、1592年、文禄の役のおり、肥前名護屋へと出陣する。この陣中にて体調を崩し1593年11月に会津に帰国したが病状が悪化し、1594年春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化しており、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。あまりにも若い死に、暗殺説もある。その才覚を秀吉にうとまれ、東北の地に追いやられ(会津のみなさんすいません)天下の中枢にはなれなかった彼の無念も伝わっている。彼は、戦国武将としては珍しく、側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の遠因となったとされる。

彼の生まれた日野城(中野城)に隣接して日野川ダムがある。IMG_4349_1600.jpg
田植えの時期を前に満々と雪融け水を蓄えた日野川ダム。

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今日 散歩の途中、その水辺で一羽のまっ白い鳥を見つけた。「鶴」か?やっぱり しらさぎだな。

posted by kogame3 at 23:54| Comment(0) | 文化