5月3日は私の住んでいる滋賀県蒲生郡日野町で日野祭がおこなわれる。この祭りは800年の歴史がある。ある人は日野の町角に信長の娘、冬姫の影を見たという。例年、この祭りはゴールデンウィークの真っただ中にあるため、日野町に生まれ、綿向神社の氏子となった人々はこの連休にどこにも遊びに行けない。そのことを不都合に思う人と、だからこそ楽しもうとする人がいる。私も若いころ、それを重荷に感じた時代もあるが、今は楽しまなければ損だと思うようになった。運命に対抗する方法は運命を楽しむしかない。
朝8時 「お稚児さん」と呼ばれる神子(6歳の男子3名)が多くの警固に守られながら神社に向かう。そのあとを追うように各町内の曳山が神社に向かう。動画はこの曳山が町角を曲がるときに行われる「ぎんぎりまわし」の様子である。曳山はその重心に一本の芯棒が地面に向かって突き出している。曳山をテコでジャッキアップしてこの芯棒と地面との間に硬い木のスペーサーを挟み、四輪を浮かせる。そして細心の注意を払い曳山をゆっくり回転させる。
曳山は16基が現存する。それらはかつての日野商人達が財を成し、それを惜しげもなく使った豪華なものだ。彼らは質素倹約を旨とし、この地を離れ、一生懸命働き一年を過ごす。そして、年に一度のこのお祭りのために贅をつくした。彼らは時を越え、人生とは文化の為に生きることだよ、と私たちに教えてくれているようだ。
曳山が綿向神社に到着すると宮入の前に、神子であるお稚児さんに境内に入ることの許可を得る儀式がある。「花警固」と呼ばれる曳山の使者が挨拶に行く。今年の本町の使者は、町内の女性と結婚した海外の男性である。この日の為にオーストラリアから帰国した。挨拶を失敗するとやり直しを食らう。彼は前日から町内の若衆に口上の特訓を受けていた。ドキドキの瞬間だ。日野祭は礼に始まり礼に終わる。
曳山の屋上には、ダシとよばれる人形が飾られ、各曳山がその出来栄えを競い合う。
神輿は3基ある。神輿は祭りの花である。重い神輿は担ぎ手の肩をたたきつけ、彼らの肩は腫れあがる。日頃おとなしい現代の若者もこの日ばかりはそのエネルギーを爆発させる。動画は、拙宅の前を通過する村井の神輿と宮入する神輿を曳山の屋上から撮影したものである。その迫力に、やはり感動と興奮を覚える。
夕方 日が落ちると曳山を町内に引き下げる。提灯に明かりが灯り、曳山が列をなして通りを下るその光景は、祭りの興奮を静かに閉じるかのように哀愁を帯びている。祭り囃子もそれを演出するように優しい調子に変わる。
この祭囃子は日野商人達が、遠く関東秩父などから持ち帰ったものとされる。その調子は京都祇園や長浜のそれとは違い関東風のリズミカルなものである。毎年4月に入ると毎晩のように各町内でこの祭囃子の練習が行われる。子ども達は、町内の先輩や親の世代から囃子を受け継ぐ。お祭りの楽しみ方も同時に受け継ぐ。やがて子ども達は大人になり、日野の地を遠く離れても、故郷のこの祭りを思い出し懐かしむ。昔の日野商人のように。日野祭は老いも若きも、金持ちも貧乏人もない。みんなが平等に祭りを楽しむ。じつに良い祭りだ。
前日5月2日には西之宮祭と日野祭宵宮が行われる。若衆の熱気でこの夜は最高に盛り上がる。
西之宮の神輿は少ない氏子でこの重たい神輿を担がねばならない。
越川町 新町 本町の曳山が、越川町にある旧正野感応丸薬局前の広場に結集し、囃子を競い合う。宵宮の夜は日野町の各地でこのような曳山の結集で盛り上がる。なお 感応丸は日野が生んだ全国ブランドの薬である。かつては日野商人がこの薬を全国に行商して歩いたとされる。
下のフィルムは昭和33年以前に撮影された8ミリフィルムです。私の叔父が撮影したものだと思います。私の生後半年の動画の前に撮影されていました。なんとカラー映像であることに驚きます。いまの団塊の世代が子供だったころの映像でしょうか、神輿に沢山の子ども達が映っています。戦争が終わり平和な時代がやってきた証でしょうか、皆さん明るい表情です。動画の視点の高い位置からの撮影は日野町村井本町の曳山の屋上からの撮影です。本町の山倉は平成2年に今の場所に新築しています。その前は、呉服町の辻にありました。そこから本町通りまで曳山を引っ張り出してきていました。その地点からの撮影です。当時の女の子がきれいな洋服を着ていたり、ほし店やでブリキのおもちゃや風車が売っていたりして楽しい動画です。ひばり野に一基 曳山があります。今井町でしょうか。いろいろコメント頂ければ幸いです。
posted by kogame3 at 09:55|
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