2015年11月19日

「満州流民」の不思議なご縁

 私には小学校の頃からの友人が5人ほどいる。よく酒をのみ、たわいのない話をし、人生を語り合ってきた。それぞれ 進学先も就職先も違っていたが気の合う仲間たちだ。その中でひときわY君とは小学校からよく遊び、お互いのうちで夜明かしで語り合ってきた仲である。もう50年来の付き合いになる。かつてY君のうちにはかわいいお婆さんがおられた。1984年、25歳になったY君と私は、テントひとつ車に積んで九州放浪の旅に出ていた。その旅から帰って来るとなんとそのお婆さんのお葬式の真っ最中であった。携帯電話のない時代、連絡のすれ違いであった。Y君はなんとか出棺に間に合い面目を保った。亡くなったお婆さんには一人息子がおられたが昔戦死されたという話であった。戦後、いまのY君のお父さん(すでに故人)が養子に入られたそうだ。


 話はかわるが、私の親父と叔父はともに昭和20年の春に満州に渡り、親父は鞍山の製鉄所に就職、叔父は軍属としてチチハルの航空部隊に配属となった。親父は、16歳の若さで同じ神崎商業学校の同級生8人と集団就職したようだ。昭和20年8月9日のソ連軍の侵攻、つづく15日の終戦で満州の事態は一変した。それまで 支配者として満州の土地で君臨していた日本人の地位は地に落ちた。それまで強いられたげて来た満州人たちが暴徒と化した。そこに侵攻してきたソ連軍が加わり、日本人に対する、暴行、略奪、恥辱はひどいものであった。それまで無敵を誇った関東軍はいとも簡単に敗退し、入植した日本人さえも護れないありさまであった。昭和20年9月9日父たちのいる製鉄所の寮も満州人の暴行・略奪にあい、数名の同僚が惨殺された。父と同郷の親友2人が亡くなった。その後、住んでいた寮も中国共産党軍(八路軍)に接収され、父たちは満州を放浪することになる。父は運よく製鉄所の技術者家族の家にかくまわれ、翌21年の秋に生きて日本に引き揚げることができた。荷物は、殺された仲間の遺骨が入ったリュックが一つだった。


 父はこの時の体験を息子である私に直接話すことはなかった。そして今は痴呆が進み、もう話すことも出来なくなってしまった。ただ、この時の体験は父の脳裏に強く刷り込まれたのだろう、叔父の遺稿である「満州流民」の出版の解説の中に書き込まれていた。先日 Y君といつものように飲んでいるときにこの話になり、戦死されたとされる彼の叔父さんの名前を聞いた。私はその名前を聞いたときにひどく驚いた。なんとその名前は、私の父が満州で亡くした友人の一人、その人であったのである。親父と亡くなったY君の叔父さんとは満州で親友だったのである。不思議な縁を感じた。


 私の叔父は、満州でソ連軍に使役に使われ、病床に倒れ、暴漢に襲われ足を負傷し命からがら引き揚げてきた。そして若くしてこの世を去った。叔父は長男だったのでもし彼が生きていたら今の私は生まれていなかったかもしれない。満州で亡くなったY君の叔父さんも長男だったので もし生きておられれば今のY君は生まれていなかったかもしれない。そう考えると、私とY君とのご縁はますます不思議なものに思えてくる。かくしてかつての戦争は戦後に生まれた私たちの運命にも影響を与えている。無念にも若くして亡くなられた2人の叔父たちに合掌。2人を引き合わせてくれたご縁に感謝である。


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2015年10月26日

シベリア抑留の記憶と国防の要

舞鶴市をゆっくり見学した。最近 シベリア抑留と引揚げの記録がユネスコの世界記憶遺産として登録が決定した。旧満州に若くして入植し、そして大変な思いで引揚げてきた私の親父と叔父のこともありぜひとも訪れたい街であった。かたや現在の舞鶴は海上自衛隊の重要拠点の一つでもある。天然の良港として旧海軍の施設を引き継ぎながら近代的な軍艦が並ぶ。戦争の悲惨な歴史を持ちながら、国防の最先端基地という両極を担うこの街は、その二つの事柄が不思議に融合しこの街の独特な雰囲気を醸し出している。


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引揚記念館は多くの来場者で賑わっていた。



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この引揚記念館の設立にあたっては多くの引揚者が資金を捻出して建てられたそうである。


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シベリア収容初での悲惨な生活。少ない食料を天秤棒を用いて分配する。毎日おおくの人が亡くなっていった。シベリア抑留者の正確な人数は把握されていない。


 厚生省はソ連抑留者57.5万人、6万人以上が亡くなったとしている。未だに正確な数が判明していないことは大きな問題だ。関東軍という国家の軍隊に従軍していたことを理由にソ連やモンゴルに不当に連行され、数年の過酷な労働に従事させられた。これは戦争終結の条件を定めた「ポツダム宣言」に完全に違反している。


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記録するものはすべて取り上げられていたので、白樺の皮に、缶詰の金属破片を用い、木のススを水に溶かして綴られた「白樺日誌」。抑留者は自らの体験を何とかして後世に残そうとした。


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当時の引揚桟橋は撤去されていたが、平成になり再現された桟橋。多くの人が祈りを捧げていた。この桟橋に降り立った引揚者は66万人。日本の引揚港が閉鎖されていく中、昭和33年まで13年間にわたりこの港は引揚者を受け入れていた。


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街の中心部に赤レンガパークがある。100年以上前に建てられた10棟の赤レンガの建物が並び当時の雰囲気を醸し出している。


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海軍記念館。現在も海上自衛隊の施設となっている。東郷元帥をはじめ、日本海軍の記録が多く展示されている。


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北吸桟橋に並ぶイージス艦とヘリ搭載艦。この桟橋の長さは1000mもある。


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へり搭載艦 「ひゅうが」


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五老岳から見る舞鶴湾。深く入り組んだ地形は天然の要塞であることがよくわかる。


 昭和20年の敗戦によって海外に残された日本人は660万人にのぼった。とんでもない数の難民である。彼らが民族の大移動として日本本土に帰ってきた。そこでは再会の喜びとともに大きな混乱が存在したことだろう。現在シリア難民がヨーロッパに押し寄せている。どこか他人事のように見ている自分がいる。しかし 70年前の日本人も同様にすごい経験をした歴史を持つことを忘れてはいけない。


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2015年10月09日

満州流民

 私の父は1945年5月、16歳で旧満州の鞍山の製鉄所に就職し、そこで終戦を迎え翌年日本に引き揚げてきた。父の2つ上の兄、私の叔父にあたる漳次郎は同じく1945年5月に関東軍軍属として旧満州チチハル近郊の航空隊に配属となった。同8月9日突然のソ連軍侵攻を知り航空隊は満州国内を敗走する。ハルビン平房で終戦を知り武装解除、ソ連軍の監視のもと満州各地を使役として引きまわされる。12月ハルビンで職を得るも1946年1月発疹チフスにかかり職場を追い出される。香坊収容初で病臥するも奇跡的に回復する。2月収容所が中国人暴徒に襲われ、手りゅう弾で左足の指をすべて失う大けがを負う。病院での静養後10月日本に引き揚げてくる。戦後は京都に職を得たが満州での苦労がたたったのか1953年26歳の若さで他界している。1949年22歳の時にこの満州での経験を「満州放浪記」として綴っていた。その原稿が2001年に実家の土蔵で突然発見され、弟の父親が自費出版したのがこの「満州流民」という本である。


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 ソ連軍の侵攻が始まる前の満州は空襲や戦闘といったものは無く、比較的平穏であった。少なくとも統治者である日本人には平穏な土地であった。しかしソ連軍の侵攻ですべてが一変した。この体験談には、敗走する日本人難民、捨てられる赤ん坊、葬られることのない日本人の兵士の死体、身近な友人の死、暴徒と化した満州人、日本人を拘束するソ連兵などが鮮明に描かれている。経験したものしかわからないリアリティがある。戦中には侵略者として中国人を抑圧してきた日本兵やその庇護にあった日本人入植者がソ連の侵攻によって立場が180度反転したのである。軍人ではなく軍属であった叔父はシベリアへの抑留は免れた。しかし、支配者の頂点でもあった関東軍将校や兵士たちが満州の各地に集められ、順次列車に詰め込まれシベリアに送られるシーンはなんとも悲しい。彼の文章には何度も「負けたのだから仕方がない」という表現がある。いつ死ぬか殺されるかわからないような事態においても「不思議に死ぬのは怖くない。しかし 故郷の親を思うとどうしても日本に帰りたい。それが生きる力だ」というメッセージがひしひしと伝わってきて読むものの胸を詰まらせる。無謀な戦争を始めてしまった大人たちへの怒りが随所に溢れる。彼は軍国少年ではあったが、当時としてはかなりリベラルな思考の持ち主であったことがうかがえる。当時の青少年たちはひょっとして今考えられているよりずっと客観的に世界を見通していたのではないだろうか。


 私が生まれるのは叔父の死後5年後なので当然本人とは出合っていない。彼は長男だったので彼が生きていたらひょっとして私は生まれていないかもしれない。彼と私は時間的には人生を重ねることはなかったのだが50年の時をまたぎ、この本によって何かが繋がった感じがする。すくなくとも彼の言葉は私の心を強く揺さぶる。こんな馬鹿げた戦争は2度とするなよというメッセージをしっかり受け取った。


 彼と同時期に満州に入植した私の父も1946年秋に日本に引き揚げてきている。満州では兄と同じようにソ連軍の侵攻や暴徒により何人も友人を亡くし、荷物は彼らの遺骨だけというありさまだった。友人や上司に支えられて引き上げまでの期間を過ごしたようである。日本に帰りたいという思いだけが命を支えたのだろう。そんな父も86歳。 今は痴呆がすすみ当時のことを話すことも出来なくなってしまった。戦後 日本に帰ってくると彼は猛烈に働いた。それは私腹を肥やすためではないことは子供ながらによくわかった。しかし何のために彼はこれほどまでに他人に尽くすのか私には理解できない部分が少なからずあった。私もいい歳になり、今ではなんとなくわかる気がする。父たちは満州で無念にも死んでいった友人たちの分まで生きようとしたのだ。自分達を生きて日本に帰らせてくれた恩人たちに報いるため必死に働いたのである。そして 多くの日本人にとっても同様に、戦争に負けた屈辱感が日本の経済を再生させた原動力であった点は見逃せない。同胞の命を背負ったその意志の強さは筋金入りだ。


 現在 病の床にある父は一日も欠かさずこの兄の遺稿を抱きしめ眺めている。痴呆が進んでも終戦前後の満州での記憶は決して消えないものなのだろう。この本の内容は出来るだけ多く人に読んでほしいので近々PDFファイルにして公開する予定だ。アマゾンでは入手できない。


posted by kogame3 at 11:20| Comment(0) | 歴史認識