2015年10月03日

かわいそうな牛河さん

 村上春樹さんの小説「1Q84」を読み終えた。村上さんの描く物語に出てくる登場人物はみんなクールでかっこいい。ファッショナブルで都会的なセンスに溢れている。透明感があり人間臭ささは漂ってこない。精神的には自我のはっきりしたちょっと日本人としては珍しいような人物が多い。こころの中ではいくつかの葛藤はあるもののよほどのことがないかぎり感情的なもので動くことはない。いや感情を爆発させるシーンはあるがそれが物語のクライマックスでもある。そのコントラストが大きいというべきだろう。そんな人物描写のクールさこそが、村上さんが若い人に人気がある理由の一つかもしれない。この独特な人物描写は、爆笑問題の太田光さんが村上さんを嫌うポイントでもある。(彼一流のギャグかもしれないが)


 小説「1Q84」や「ねじまき鳥・・」に出てくる牛河さんは例外的な人だ。まず ビジュアルが最低だ。体形はチビでデブ、ハゲで頭でっかち、人相も悪く、ファッションセンスは全くなく、どちらかと言うと不潔で汚らしい。主人公たちとは正反対の生き物だ。所作は慇懃無礼で人に嫌悪感さえ与える。そしてその精神も汚らしい。人の善悪感情や不安といったこころの隙間に入り込む。俗にいう裏社会のおこぼれで生きている人だ。基本的に人間の心の闇の部分に生息している人ではあるが、彼はときおり表に出てきて主人公の心をかき乱す。牛河さんを一人の人間としてみた場合、村上さんの彼に対する扱いはあまりにひどく、もう存在価値のないゴミのような人間として描かれている。物語の中でこれでもかというほど村上さんは牛河さんをいじめている。でも牛河さんはクールでかっこいい主人公のこころをチクチク刺すので無視することもできない。

 そんな牛河さんにも人間らしい過去があった。ということが1Q84 book3で描かれている。ネタバレになるといけないので詳細は省くがいろんな意味で、私自身が彼にシンパシーを感じてしまった。ちょと牛河さんと自分の過去をオーバーラップさせてしまったようだ。そんな、村上さんの配慮(?)に救われる思いもした。人間だれでも牛河さんのような部分を持っているのかもしれない。


 村上春樹さんの小説には、非現実的な基本ストーリーとそれを絵画のように装飾する描写や小道具がある。音楽や食べ物、ファッション、文学などがパッチワークのようにそこに張り付けられ、それらがBGMのように小説全体の雰囲気をかもしだす。村上ファンタジーの世界がそこにはある。本を開けば目に飛び込むリズミカルな短い文体に、誰もが簡単にファンタジーの世界に引きずり込まれる。その雰囲気に飲まれ、読者は日常から解き放たたれ、ファンタジーに酔う。しばらく読み込むと村上春樹さんが一番訴えたい深遠なテーマがその絵画のような物語を透かして見えてくる。それこそが読者の心を大きく揺さぶる。

 この重層的な意味合いをもつ小説のテーマはたぶん映画やドラマといった他のメディアでは表現が難しいのではないだろうか。村上春樹さんの物語は、小説という形をとることによって読者のイメージを喚起する。当然読者にイメージされた人物像は読者によってバラバラであろう。なぜなら 読者の心に投影される人物像は読者各々の過去の人生、その人の「物語」に依存しているからだ。その読者のイメージが小説をとおして物語を紡ぐ。そうすることによって村上さんの訴えたい深遠なテーマの片鱗が見えてくる。不思議なことだ。人の心にあるイメージは、ひとそれぞれ違うのに、多くの人が村上ファンタジーに深いテーマ性を見出し共鳴を覚える。ひょっとして映画やドラマのように最初からビジュアルイメージが固定されたメディアでは、この共鳴は起こらないのではないだろうか。なぜなら、どんなに優れた役者が演じてもそれは視聴者自らの「物語」とはなりえないからだ。牛河さんの役をどんな個性派俳優が演じてもたぶん私はこれほどのシンパシーを感じなかっただろう。そういう意味で村上さんの小説に描かれる「物語」は読者との共鳴現象を喚起することに成功しているとも言える。一番大切なことは言葉にできない。でも 村上さんの小説は「物語」を紡ぐ言葉の向こうに大切なものが透けて見えてくる。活字離れが進む日本における新たな可能性かもしれない。


posted by kogame3 at 13:47| Comment(0) | 日記
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