2015年07月11日

ポツダム宣言

 70年目の終戦の日が近づいてきた。先の安保法制の議論の中で安倍首相が「つまびらかには承知していない」として紛糾したポツダム宣言に関して今回は考察したい。1945年9月2日に重光葵全権により東京湾に浮かぶ戦艦ミズーリー甲板にてこの宣言は正式に調印された。少なくともこの宣言受諾によって、この先の国際政治における日本の立場が決定されたといっても過言ではない。やはり、首相たるもの海外派兵の是非を問う議論の中では逃げないでほしかった。日本は戦争に負けたのでこの宣言を受け入れたということであり、負けた以上ここに書かれている内容がこの戦争に対する理解の出発点になる。これが世界共通の認識である。宣言の内容に関しては以前拙筆のブログで全文を紹介したが、再度 簡単なレビューを行う。


 ポツダム宣言は13条からなる日本に対する降伏勧告文書で、米国大統領 トルーマン、中国民国主席 蒋介石、英国政府総理大臣 チャーチルの名前で1945年7月26日に発信されている。


 1条から4条を要約する。連合国側は圧倒的な軍事力で日本を全滅させる準備が整った。ドイツの例をみてもわかるようにこれ以上戦争を継続すれば日本を完全に破壊する。ここで最後の終戦のチャンスを日本に与える。といった強烈な脅しで始まっている。この宣言が教科書に掲載されない理由は、この「脅し」の部分が不適切なのだろう。

 5条から8条が具体的な降伏条件となっておりこの宣言の根幹である。この条件は一歩も譲歩しないとしている。また 回答に時間的な猶予もゆるさない。ここは重要なので全文を記す。

6条.日本国民を欺いて世界征服に乗り出す過ちを犯させた勢力を永久に除去する。無責任な軍国主義が世界から駆逐されるまでは、平和と安全と正義の新秩序も現れ得ないからである。

7条.第6条の新秩序が確立され、戦争能力が失われたことが確認される時までは、我々の指示する基本的目的の達成を確保するため、日本国領域内の諸地点は占領されるべきものとする。

8条.カイロ宣言の条項は履行されるべきであり、又日本国の主権は本州、北海道、九州及び四国ならびに我々の決定する諸小島に限られなければならない。

ここで 戦争責任とその駆逐、占領、領土に関して記載されている。この戦争で日本は「世界征服」に乗り出したと記載されている点も見逃せない。安倍首相が答弁を避けた理由として、「世界征服」の文言があったためとされる。まさに今日的議論の中核である。


 9条から12条は、日本側がこの宣言を受け入れやすいように占領政策の内容に言及している。戦争犯罪人の処罰を除き、日本人を奴隷にするつもりはないし日本民族を滅ぼすつもりもない。日本に自由と基本的人権、民主主義を定着させる。また、兵士は家庭に返され平和に暮らせる。占領は、これらの目的が達成されれば終わる。また 日本は国際貿易も可能とし、軍事的な産業を除いて経済復興を目指す。これにより戦後賠償にあてる。とされている。ここで注目すべきは、賠償金を即時現金で支払うことを明記していない点である。これは 第一次世界大戦の敗戦国ドイツがベルサイユ条約により膨大な戦後賠償を求められ、国内経済が破たんたこと、結果 第二次世界大戦へと発展した歴史を繰り返さないためとされる。政治体制は日本国民が自由意志による政府の樹立を求めるとした。天皇制に関しては言及していない。

 そして 13条で初めて「全日本軍の無条件降伏」という言葉が出てくる。それなくしては迅速かつ完全なる破壊があると締めくくっている。12条までの条件とこの表現をもって日本は無条件降伏ではないとする意見もある。現在からみると各条項は日本に対し非常に厳しい表現を含んでおり、承服しがたい部分もあろう。しかし「戦争に負けた」ことを認めるということはこういう歴史認識を持つことを強要されることなのだと理解せねばならない。これを認めないと「日本の完全なる破壊」しか選択肢はなかったのだから。


 次にこの宣言前後の歴史について時間を追って検証してみたい。

1945年6月

ポツダム宣言の文言について米国内で議論が交わされる。日本が一番こだわるだろう天皇制維持の問題が論点だった。米国世論調査では天皇に対する責任追及は当然であるという意見が趨勢をしめていた。占領政策や日本側の態度硬化を懸念する意見も首脳部では多く結局終戦後の政治体制に関しては「日本国民が自由意志により決める」という表現にされた。

1945年7月17日

 ドイツ降伏後、かつての映画俳優の別荘地であったベルリン郊外のポツダムにトルーマン大統領、チャーチル首相、スターリン書記長が集まり第2次世界大戦の戦後処理に関して話し合われた。関心事はヨーロッパの戦後処理であり、日本の処理ではないことに注意したい。ヨーロッパ戦後処理に関しては米ソ対立が明白でほとんど成果がなかったとされる。会談の開始前スターリンは日本への侵攻をトルーマンに伝えた。この日トルーマンのもとに米国ニューメキシコにおける原爆実験が成功した旨の情報が入る。これはヤルタ会談において密約したソ連の参戦が無くても、米国は日本を降伏させられるという状態になったことを意味する。

7月25日

 トルーマンは、日本への原爆攻撃を承認する。これを受け、ハンディ陸軍参謀総長代行からスパーツ陸軍戦略航空隊総指揮官あてに原子爆弾投下が指令された。ここで「広島・小倉・新潟・長崎のいずれかの都市に8月3日ごろ以降の目視爆撃可能な天候の日に「特殊爆弾」を投下する」とされた。戦後原爆攻撃は日本がポツダム宣言を拒絶したためとされる理解が多いが、事実は宣言が出される前の日に原爆攻撃を承認している。すなわちトルーマンはソ連の極東支配がはじまる前に原爆の威力を世界に見せつけ、戦後の覇権を握りたかったと理解できる。

7月26日

 ポツダム宣言が短波放送で発信される。トルーマン、蒋介石、チャーチルの名前でこの宣言はなされる。当然スターリンはこの時点で日本とは中立状態であるのでこの宣言には署名していない。また 蒋介石も中国戦線で疲弊しておりこの会議には参加できていない。内容は無線で交信されており蒋介石は宣言内容を承諾した。また チャーチルはこの時点で英国本国での選挙に大敗し、ポツダムを離れている。なんと 驚くことに、この宣言文はトルーマン一人が、自身の分も含め3人分のサインを代筆している。

 同日日本側は短波放送を傍受しこの宣言を知り、この宣言の取り扱いに関し最高戦争指導者会議で議論を始める。外務省 東郷外相は「重要な内容である。受諾はやむをえないが、条件に関しては交渉の余地あり」と発言した。陸海軍は「徹底抗戦」を主張する。結果、宣言はマスコミに公表し 政府見解は「ノーコメント」とすることとした。


7月27日

 日本の大手新聞社は一斉に宣言の全文を掲載し、「笑止千万」と内容を評論した。陸軍から政府が宣言を無視するよう発表すべきという突き上げがあり、記者会見で鈴木貫太郎首相は「政府はこれを黙殺する」と発言した。

7月28日

 朝日新聞はこれを「黙殺」と報じ、同盟通信社は「ignore it entirely(全面的に無視)」と翻訳し、ロイターやAP通信は「Reject(拒否)」と訳され報道した。トルーマンは、この宣言を日本は飲まないだろうと日記に記している。

8月6日

広島原爆攻撃

8月8日 午後11時
モスクワでモトロフ外相が佐藤駐ソ大使に宣戦布告を行う。佐藤大使が早急に日本に連絡をとろうとしたところ電話回線がすべて遮断されていた。ゆえに ソ連の侵攻は全くの奇襲となった。また 日本側はソ連に宣戦布告をしていない。

8月9日
午前零時 ソ連軍の侵攻が始まる。

長崎原爆攻撃。

ソ連のポツダム宣言参加。

深夜 御前会議にてポツダム宣言の受諾の聖断が下る。

8月10日

 「天皇統治の大権を変更する」要求が含まれていないという了解の下に受諾する、という日本側回答が決定された。これは3時からの閣議で正式に承認され スエーデンとスイスに向けて送信された。

8月12日

 米国バーンズより「日本の政体は日本国民が自由に表明する意思のもとに決定される」とし、また「降伏の時より、天皇及び日本国政府の国家統治の権限は降伏条項の実施の為其の必要と認むる処置を執る連合軍最高司令官に"subject to"する」という返答がある。subject toは「隷属する」という意味だと陸軍が反対するも、「制限下に置かれる」と外務省が主張する。

8月13日

 この時点で米国内では日本の回答をせかす世論があり、上記の内容を記した米軍のビラが東京に撒かれている。連合国側ではすでに日本が宣言受諾するという情報が流れており祝賀ムードであったという。

8月14日 

 御前会議にて2度目の聖断が下り、「終戦の詔勅」が発せられる。同日スイス公司を通じて宣言を受諾する旨、連合国側に伝えられた。深夜に玉音放送が録音される。

8月15日

正午に玉音放送が流れる。これを中止させるため陸軍青年将校らが前日からクーデターを起こすも失敗する。

8月16日

全陸海軍に停戦命令が出される。

ソ連は北方領土獲得のためこの後も軍事侵攻を続け、9月2日の調印までこれを続けた。ソ連の北方領土の実効支配は、ポツダム宣言違反であるという意見もある。


 日本の無条件降伏という米国の戦争目的は完全に達せられた。果たして真珠湾攻撃のときに連合国側がここまでやると日本の為政者、軍人は考えていたであろうか。日本は「自存自衛」のために開戦を決意したのであるが、負けると「世界征服」に歴史は変えられていた。現在もこの歴史観に異議を唱えることはご法度であり歴史修正主義者レッテルを張られる。戦後米国が主導してきた国際秩序に異議を唱えることになるからだ。

 喧嘩に例えれば、日本はABCDという何人かの大男達のいじめに合い、遠くのHやMという悪い仲間にそそのかされ、うっかり先に手を出してしまった。二三発パンチは当たったけど、大男たちにボコボコに殴り返され、傷だらけになり、羽交い絞めにされて、のど元にナイフを突きつけられた。そして「私が皆を殺そうとして先に手を出しました。罪を認め、償いはします。なにをされても喧嘩は2度といたしません。そして、この先皆さんのいうことは、なんでも言うことを聞きます」という書類にハンコを押せと脅された。喧嘩の仲裁を頼んでいた北の友達Sもこの状況をみて最後に裏切り、後ろから殴りかかってきた。ことここに至っては、殺されバラバラにされるよりマシだと考えいやいやながら書類にハンコを押した。70年経ってもその書類の内容で繰り返し反省と謝罪を求められ、ことあるごとにいじめられる。ええ加減にしてくれ!って心の中では思っているけど声に出してはいえない、、、。(ちょっとふざけすぎましたか)


 この先の議論が難しい。力による支配を否定する現在の国際社会において、力による屈服を強いられた日本の過去がある。このねじれた感情のやり場がないのである。この感情をどう分解し、整理していくかが大きな課題だ。多大な戦後賠償がドイツを第2次世界大戦に向かわせたように、歴史の塗り替えが日本を間違った方向に導くことを恐れる。

posted by kogame3 at 16:24| Comment(0) | 歴史認識
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