2015年05月16日

太平洋戦争への道

 今年は戦後70年の節目の年である。第二次世界大戦の戦勝国を中心に多くのイベントが予定されている。私はかつて歴史の時間などで、第二次世界大戦は自由と民主主義を標榜する連合国(米英仏ソ中)と全体主義を推し進める枢軸国(日独伊)との戦いだった。枢軸国の他国への侵略を阻止するための戦いであった。それは、植民地を持つ国と持たざる国(枢軸国)との間の植民地獲得のための戦いでもあった、と教えられた記憶がある。しかし、なぜ日本は米国のような工業的超大国を相手に戦争を仕掛けたのか、そんなことをしてどうするつもりだったのか。そのことに対して納得のいく説明を受けてこなかった。このブログでは以前、戦争の発生の精神的側面を論じてきた。今回は、当時の史実をもとになぜ日本はこの非合理とも思える戦争に突き進んだのか分析してみたい。なお 今回の分析では個々の事例についての正邪、善悪の判断や解釈は一切行わないこととする。


 太平洋戦争は1941128日、海軍による真珠湾奇襲攻撃と陸軍によるマレー半島北端への奇襲上陸に始る。同年1126日、米国の国務長官ハルがそれまでの日米交渉をひっくり返すような内容の「ハル・ノート」を日本側に提示したことが有名である。これを受け日本では、ハル・ノートは米国の最後通牒(交渉打ちきり通告)であるとの認識から、121日の御前会議で日米開戦が決定された。そして、122日午後、既にハワイに向け出航していた南雲中将率いる空母機動部隊に対し大本営から暗号「ニイタカヤマノボレ一二〇八」(128日真珠湾攻撃命令)が打電された。この攻撃を知ったドイツ、ヒトラーは米国に宣戦布告をし、ヨーロッパの戦争だった第二次世界大戦は米国とアジアを含め、世界中を巻き込む大戦争と拡大するのである。


 日本を日米開戦に踏み切らせたハル・ノートとはどんな内容だったのか。そこから当時の世界の状況をひも解いていきたい。

以下にハル・ノートの10項目を記す。

1.イギリス・中国・日本・オランダ・ソ連・タイ・アメリカ間の多辺的不可侵条約の提案

2.仏印(フランス領インドシナ)の領土主権尊重、仏印との貿易及び通商における平等待遇の確保

3.日本の支那(中国)及び仏印からの全面撤兵

4.日米がアメリカの支援する蒋介石政権(中国国民党重慶政府)以外のいかなる政府も認めない(日本が支援していた汪兆銘政権の否認)

5.英国または諸国の中国大陸における海外租界と関連権益を含む1901年北京議定書に関する治外法権の放棄について諸国の合意を得るための両国の努力

6.最恵国待遇を基礎とする通商条約再締結のための交渉の開始

7.アメリカによる日本の資産凍結を解除、日本によるアメリカ資産の凍結の解除

8.円ドル為替レート安定に関する協定締結と通貨基金の設立

9.日米が第3国との間に締結したいかなる協定も、太平洋地域における平和維持に反するものと解釈しない。(日独伊三国軍事同盟の実質廃棄)

10.本協定内容の両国による推進

とくに3.4.項が日本には受け入れがたいとされた。それはなぜなのか。それを知るためには開戦当時の世界情勢を理解せねばならない。連合国5大国と日本およびドイツの関係を知ることから始める。ここで重要なのは日本から見た世界観と連合国側のそれとは相当な齟齬が生じている点である。


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     年表 開戦までの主要国の動き


中国と日本の関係

 1931年の満州事変以降、日本は中国東北部の満州国を支配下においていた。30年代前半の中国は、蒋介石、汪兆銘を首班とする親日的な国民政府と周恩来、毛沢東が指導する抗日共産党勢力、その他多くの軍閥が存在していた。国民政府は共産党勢力と内戦状態にあった。軍閥の中には「より強い側につく」という姿勢であり親日勢力もあった。19361212日、現在でも真相がナゾとされる「西安事件」が起こる。蒋介石が部下の張学良に西安で拉致さされ、共産党勢力への攻撃の即時停止と、日本に対する本格的な抵抗戦を開始するように要求された。この事件を境に国民政府は共産党勢力への攻撃をやめ、盧溝橋事件以降、国共合作が結成される。西安事件の背後には、ソ連のスターリンの意向とコミンテルン、中国共産党勢力の影があるとされる。193777日の盧溝橋事件以降、日本の中国侵略の意図が明確になり共産党勢力は急速に拡大している。そして本格的な日中戦争へと戦線が拡大していく。

 1937年、南京が陥落すると蒋介石は首都を重慶に移し、日本に対する徹底抗戦を表明する。しかし、国民政府は財政的に非常に苦しく、汪兆銘は蒋介石に無断で日本との和平工作に奔走する。1940330日、汪兆銘は日本の傀儡政府「国民党政府の南京遷都」という形式で南京政府の樹立をハノイで発表する。国民政府は、蒋介石率いる重慶政府と汪兆銘率いる南京政府に二分される。

 日中戦争開始以降、米英ソ仏を中心に重慶政府に対し援助物資の供給が行われた。いわゆる援蒋ルート(蒋介石支援ルート)を通じての軍事物資の供給である。太平洋戦争の終戦までこの支援は行われ、日中戦争は泥沼化し、日本軍は常時100万人の軍隊を中国に常駐させることになる。


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        援蒋ルートと各国の支援

ドイツと日本の関係

なぜ地球の反対側にあるドイツやイタリアと日本は同盟を結んだのか。どういう利害関係があったのか興味深いところである。歴史では、植民地獲得競争に出遅れた日独伊と勝利していた英仏蘭との対立とされている。

第一次世界大戦で敗北したドイツはアジアの植民地をはく奪され、ベルサイユ体制のもと多額の賠償金を課せられた。世界恐慌の影響もあり国内の経済状況は疲弊し不満が高まっていった。そんな中1933年ナチス党率いるヒットラーが政権に着き、ゲルマン民族の優位性を内外に誇示することで国民の支持を集め、軍備拡張を図る。実際にドイツは1930年代前半、中国での利権を拡大しようとして蒋介石に軍事支援を行っている。

日独伊三国同盟は、1936年に結ばれた日独防共協定に端を発している。広大な国土をもつソビエトの脅威を洋の東西で封じ込めようと締結されたものである。当時ソ連共産党の海外活動、コミンテルンの動きが東西で活性化しておりこれを協力して封じ込めようとした。しかし1939年には独ソ不可侵条約が結ばれ、この防共協定は実効性を失ってしまう。ドイツはその年の91日ポーランドに侵攻する。これに対し、英仏がドイツに宣戦布告しヨーロッパで第二次世界大戦が始ってしまう。またソ連も917日ポーランドに侵攻しポーランドはドイツとソ連に領土を分割されてしまう。1940年に、ドイツはヨーロッパ西部に侵攻し、6月にはパリが陥落する。その後もヨーロッパにおけるドイツの軍事優位性は圧倒的であり、ノルウェー、デンマーク、ベルギー、オランダ、ルクセンブルク、フランス、ユーゴスラビア、ギリシャを順次征服していく。ドイツの同盟国であるイタリア、ハンガリー、ルーマニア、ブルガリア、フィンランドを含めるとイギリスと中立国をのぞくヨーロッパ全域をヒットラーが支配することになる。日本としては、フランスを征服し優勢なドイツと早期に手を結ぶことは、中国支援を続けるアメリカを牽制し、また東南アジアにおける英仏蘭の植民地での日本の利権をドイツに認めさせる狙いがあった。ソ連への侵攻をもくろんでいたドイツは、日本が極東でソ連と対峙することで広大なソ連を分断しようという狙いがあった。近衛内閣の松岡洋介外相により1940927日「日独伊三国同盟」が締結される。当初海軍高官や政府内にこの同盟に反対者おり、天皇も危惧を表明している。松岡はこの同盟交渉の中に、もし米独が開戦した場合に日本が自動的に戦争に参戦しなくても済むように自動参戦条項は空文化している。しかし 米国はこの条約を非常に重く受け止め日本を米国の脅威として受け止めた。

19416月、ドイツはソ連との不可侵条約を破ってソ連に侵攻する。モスクワまで攻め込んだドイツ軍は、同年125日冬将軍を味方につけたソ連軍の反撃に合う。真珠湾攻撃の3日前のことである。なお、日独伊三国同盟にソ連も加えた四国同盟、米国包囲同盟にしようとする日本の画策はドイツのソ連侵攻によって消えた。また、ドイツのソ連侵攻によってソ連は連合国側に属することになった。この時点でソ連に対し日本は宣戦布告をしていない。しかしドイツ、イタリアは日本の真珠湾攻撃を受けて19411211日米国に宣戦布告している。


ソ連と日本の関係

 帝政ロシア時代から、ソ連にとってドイツと日本が強敵であり両者が手を組むことを恐れていた。スターリンは、1930年代には国内の工業基板の整備と軍事力の拡充を最優先政策としており、国外問題への関与は控えていた。満州事変の折にもソ連は対抗措置を講じていない。しかし 1936年日独防共協定が締結されるとスターリンは日本の脅威を意識して中国蒋介石を西安事件で味方につけ、盧溝橋事件以降、中華民国を支援する。莫大な量の兵器がソ連政府から供与された。これに対し1938年 駐ソ大使の重光葵は厳重抗議を申し入れた。ソ連は「日本政府の説明では、中国と日本は戦争状態ではないとされる。ソ連の行為は問題ではない」と突っぱねた。

 日本とソ連の関係は冷え込み、1938年にはハルハ廟事件、1939年にはノモンハン事件という満州国境での軍事衝突が発生している。ノモンハン事件ではソ連は大規模な軍隊をモンゴル、満州国境に送り込み日本軍を撃退している。しかし、スターリンは「モンゴルの主張する国境の保持」以上の軍事展開を厳禁している。これらの事件で日ソ間の緊張度は高まり、ソ連を仮想敵国とした日独伊三国同盟の締結を促したとされる。

1939年8月独ソ不可侵条約が締結され、日本はソ連との対決姿勢から一転して同盟関係構築に動く。そして1941年4月13日日ソ中立条約締結を締結する。これにより、中ソの友好関係は崩壊し、中国のソ連軍事顧問団は引き上げる。

 1939年9月ドイツのポーランド侵攻(第2次世界大戦勃発)と同じタイミングでソ連もポーランドに侵攻している。その後ソ連は、フィンランド、ルーマニアに侵攻し、バルト三国を併合している。この時点では、ソ連もドイツと同じ侵略国である。

 1941年6月突然ドイツがソ連への侵攻を始めるが、日ソ間には中立条約がありソ連との開戦はしていない。この条約により、ソ連はヨーロッパ戦線に専念できることになり、日本は北進論を捨て、南方進出に向かうことになった。なお、日米開戦までの日本動向はソ連のスパイ、ゾルゲらによりつぶさにモスクワに伝えられていた。日米が戦うことはソ連の利益になると考えられていた。ただし、ハル・ノートはソ連のスパイ、ホワイトによって書かれたという説があるが、現実的にはルーズベルト始め米国の最高首脳が承認し日本に手交したものであり陰謀説は当てはまらない。


英国と日本の関係

アジアに多くの植民地を持っていた英国では、1920年代より日本を脅威と感じるようになっていた。日本と組んで東洋を制する考えもあったが、結局宿敵米国と組むことになる。そして 対日軍事バランスをとるためシンガポールを軍事拠点として要塞建設を進める。これは日本を大きく刺激していた。1937年の盧溝橋事件以降、対日姿勢を強め援蒋ルートを通じて蒋介石を物資面で支援した。これにより日本の米英敵視姿勢が強まる。19401月の浅間丸事件(英国海軍による臨検)などにより日本国内でも急速に英国に対する感情が悪化していく。

 1939年から始った第2次世界大戦において、ヨーロッパで唯一ドイツ軍に対し抵抗していた英国チャーチル首相は一刻でも早く米国が参戦することを望み画策していた。19407月、日本の北部仏印(現ベトナム)に進駐するとチャーチルは米国の危機感を煽るため大規模な情報戦を行っている。19412月、英国の新聞に東シナ海での日本海軍の活動を誇張し報道させ、これを「日本軍による蘭印、シンガポールへの侵攻作戦」として日本政府に抗議している。この挑発に対し、日米の対応は冷静で日米交渉は継続された。結果的にチャーチルのこの望みが叶うのは皮肉にも日本軍の真珠湾攻撃であった。

日米開戦2週間後チャーチルは23日間の長期にわたり米国に滞在し 米国大統領ルーズベルトと「戦争の大方針を決定する会議」を行っている。ここで戦争終了後の世界秩序を見据えた政治戦略として、敵と味方を徹底的に活用すること、日独伊を「侵略国家」、米英ソ中を侵略に抵抗する「自由主義陣営」と定義する政治的な宣伝攻勢がスターする。戦後の歴史教科書にはこの方針に基づく解釈がしっかりと定着している。194211日には、米英ソ中の代表がホワイトハウスで「連合国宣言(The United Nations Declaration)」という共同宣言に署名している。


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  開戦当時の植民地地図


フランスと日本の関係

 フランスの東南アジアの植民地は現在のベトナム、ラオス、カンボジアであった。フランスもまたイギリスと歩調を合わせ、日本軍と対峙する蒋介石を援蒋ルート(仏印ルート 雲南鉄道)により物資面で支援する。1939年日本軍はこのルートを爆撃するもフランスはすぐに修復し支援を継続した。

 1940年ヨーロッパ戦線でフランス軍はドイツ軍にあっけなく敗れ、仏印のフランス総督府も本国政府と同様、枢軸国陣営よりの協調姿勢を見せた。そしてフランス総督府は1940923日に日本軍の北部仏印進駐、1941723日には南部仏印進駐を承認した(

日仏現地協定)。仏印との協力関係は、日本側にとっては援蒋ルートの閉鎖というメリット、フランス側には本国や英領の植民地との交易ができなくなりその肩代わりを日本が行うというメリットがあった。この仏印への日本軍進駐という行動は、日本にとっては援蒋ルートの封鎖という目的であったが、英米にとっては自分たちの植民地利権が侵される危機として受け取られていた。


アメリカと日本の関係

現在もそうだが、アメリカは世界と交易しなくとも経済的にやっていける唯一の国家である。1823年にモンロー大統領が行った教書演説、南北アメリカ以外の海外における政治的、軍事的問題 とりわけヨーロッパ情勢に干渉しないという大方針が示された。いわいるモンロー主義、孤立主義の原則である。1929年に端を発した世界恐慌以降、米国の関心事は国内経済問題であり、ヨーロッパ、アジアにおけるファシズムの台頭にもきわめて無関心であった。1931年の満州事変に関しても日本に対する具体的な対抗策を講じることはなかった。当初ルーズベルトは「日米両国による中国経済の共同支配」を模索していた。

そんな中 ルーズベルトの姿勢が変化し始めたのは1937年の日中戦争の勃発であった。「戦争という病が世界中に広まりつつある。戦争は、アメリカ国民の平和を脅かす伝染病であり、隔離が必要である」とする隔離演説を行うが米国民は無関心であった。1938年、近衛首相の「日本と満州、中国を政治的、経済的、文化的に結合させる」と発表すると米国政府は中国の市場が日本に独占されると危機感をつのらせた。同年10月日本と対峙する蒋介石政府に対し2500万ドルの支援を行う。これは、米国法の「中立法」に抵触するが、日中両国が宣戦布告をしていないとしてこれには抵触しないとした。

1938年当時の日本の総輸出額に占める対米輸出は16%、総輸入額に占める対米輸入額は34%と最大の貿易相手国だった。194063日に米国は、兵器の生産にかかわる工作機械の輸出禁止にふみきる。同年9月 日本が北部仏印に進駐すると、屑鉄と鉄鋼の禁輸を行った。同年9月、日独伊三国同盟が発表されると、米国との友好国であるイギリスと敵対するドイツと同盟を結んだ日本はヨーロッパの戦争とリンクして扱われるようになる。同時に米国内の親日派、ハル国務長官などに衝撃が走った。日本に対する石油の全面禁輸も検討されたがこの時点では却下されている。194011月のルーズベルト大統領選での選挙公約では、「皆さんの息子さんを外国の戦争に送ることはしません」と明言している。

1941年に入ると、ヨーロッパでの戦争はドイツ軍が優勢に進め、これに危機感を募らせた米国は、米国の国家安全上の交戦国への武器貸与法(レンド・リース法)が成立し、814日にはルーズベルト、チャーチルの共同声明として「大西洋憲章」が発表された。これは実質的な米英の戦争遂行方針だった。1940年に就任したチャーチル首相の出現によってアメリカの孤立主義の原則が崩れ、連合国側の一員として変質していったとも考えられる。


この先は、日米交渉の推移について詳細に見ていきたい。1941年の日米交渉は2月からはじまり、212日の野村大使とハル国務長官の第1回の会談以降、延べ45回の会談が行われた。19414月、野村駐米大使は米国との交渉内容を、日米了解案として日本政府に示した。

以下 日米諒解案である。

1.日米両国は、相互に隣接する太平洋地域の強国であることを承認し、共同の努力により太平洋の平和を樹立し、友好的諒解を速やかに達成する。

2.欧州戦争に対する態度として、日本は三国同盟の目的が、欧州戦争拡大を防止することにあり、その軍事上の義務は、ドイツが、現にこの戦争に参加していない国によって、積極的に攻撃された場合のみ発動することを声明する。一方米国の欧州戦争に対する態度は、もっぱら自国の福祉と安全とを防衛するという見地によってのみ決することを声明する。

3.日中戦争について、米国大統領が次の条件を容認し、日本政府がこれを保証したときは、大統領は蒋介石政権に和平を勧告する。A.中国の独立。 B.日中間の協定による日本軍の中国撤兵。 C.中国領土非併合。 D.非賠償。 E.中国の門戸開放方針の復活。 F.蒋介石政権と汪兆銘政権の合流。 G.中国への日本の集団的移民の自制。 H.満州国の承認。

4.太平洋平和維持のため、相互に他を脅威する海空力の配備をせず、日本は米国の希望に応じ、自国船舶を太平洋に就役させる。会談妥結後、両国は儀礼的に艦隊を派遣し合い、太平洋の平和到来を祝す。

5.両国間通商の確保、日米通商航海条約の復活。米国よりの金クレジットの供与。

6.日本の南西太平洋における発展は武力に訴えず、平和的手段によってのみ行われるという保障のもとに、米国は日本の石油・ゴム・錫・ニッケルなど重要視源の獲得に協力する。

7.太平洋の政治的安定に関し両国は、A.太平洋地域に対する欧州諸国の進出を容認しない。 B.両国はフィリピンの独立を保障。 C.日本人移民は他国民と同等無差別の待遇を得る。

以上の点について両国が合意すれば、ハワイにおいてルーズベルト−近衛会談を行う。

中国における通商無差別問題、三国同盟問題、中国からの撤兵問題を指し、日米交渉の三難点と言われた。特に撤兵問題は交渉の最大難関とされた。


723日に日本軍の南部仏印進駐が行われるとアメリカ側は激怒し、ウェルズ国務長官は同日、日米の話し合いの基盤はなくなったと日本側に一方的に告げた。アメリカは725日、在米日本資産を凍結し、81日には石油の全面禁輸の対日経済制裁に踏み切った。これにより日米関係が危機的状況を迎えた。日本ではこの経済制裁をABCD包囲網と呼んだ。

9月6日の御前会議は、日米交渉の期限を10月上旬と区切り、交渉が成功しなければ対米開戦にふみ切るという帝国国策要領を決定した。帝国国策遂行要領では「対米(英)交渉に於て帝国の達成すべき最小限度の要求事項」として、

・米英は日本の支那事変処理に妨害せざること

・蒋介石支援ルートの停止(ビルマ公路を閉鎖し且蒋政権に対し軍事的並に経済的援助をなさざること)

・米英は極東において軍事的増強を行わないこと

・米英は日本の所要物資獲得に協力すること

これらの要求が応諾された場合は、

・日本は仏印を基地として支那を除く其の近接地域に武力進出しない

・日本は極東平和確立後、仏領印度支那より撤兵する

・日本はフィリピンの中立を保証する

ことが決定された。


 日米の電信内容は、米国の暗号解読、および(たぶん)日本の暗号解読により双方が手の内を読みあっていたと考えられている。9月以降、日米とも戦争は避けがたいという考えに傾き、以降の交渉は戦争準備のための時間稼ぎの感もある。ゆえに 相手側の戦争準備らしき行動に対し双方敏感に反応し、交渉が難航した。


乙案

1.日米は仏印以外の東南アジア及び南太平洋諸地域に武力進出を行わない

2.日米は蘭印(オランダ領インドネシア)において必要資源を得られるよう相互協力する

3.日米は通商関係を資産凍結前に復帰する。米は所要の石油の対日供給を約束する

4.米は日中両国の和平に関する努力に支障を与えるような行動に出ない

(備考一)本取決が成立すれば日本は南部仏印駐留の兵力を北部仏印に移動させる用意があること、日中戦争解決または太平洋地域の公正な平和が確立すれば、日本軍は仏印から撤退することを約束してよい 

(備考二)必要があれば甲案の通商無差別待遇、三国条約に関する規定を追加挿入する


この乙案を日本側は最終回答としていた。115日米国側は暗号を傍受解読(マジック)しておりこの乙案の内容を事前に知っていた。また、米国の回答期限が1129日に設定されていることも知っていた。米国は日本が南部仏印に進駐した7月の終わりの時点で日米開戦を覚悟していた。戦争準備のための時間稼ぎのため、アメリカ側の一定譲歩を含む暫定提案を日本側に送る準備をしていた。1122日にハルは、イギリス大使ハリファックス、オーストラリア大使カセイ、オランダ公使ロウドン、中華民国大使胡適を招き、暫定協定案を説明した。イギリス、オランダは暫定提案に賛成したが中国がかたくなに反対した。

1125日午後、スティムソン陸軍長官に米陸軍情報部(G-2)から「三十隻か四十隻、または五十隻」の船団に「五個師団」の大規模兵力の日本軍の船団が台湾南方にあるという情報が届いた。これの情報を日本の戦争準備として彼は大統領に伝えた。これは、明らかに誤報であった。ルーズベルトは日本への暫定提案を却下し、ハル・ノートの手交を命じた。1126日 ハルは野村・来栖に対し、日本側「乙案」の拒否を伝え、ハル・ノートが日本側に手交された。野村・来栖は、内容を一読し到底受け入れられないとの反駁を試みたがハルは無視をした。1127日 野村・来栖の両大使はルーズベルト大統領と会談した。野村の「今回の貴国側提案は日本を失望させるべし」との言に対しては、「自分も事態がここまでに至ったのはまことに失望している」と応じた。さらに「日本の南部仏印進駐により第一回の冷水を浴びせられ、今度はまた第二回の冷水(日本のタイ進駐の噂)の懸念もある」「ハルと貴大使等の会談中、日本の指導者より何ら平和的な言葉を聞かなかったのは交渉を非常に困難にした」「暫定協定も日米両国の根本的主義方針が一致しない限り、一時的解決も結局無効に帰する」と述べた。同席していたハルも暫定協定が不成功になった理由について「日本が仏印に増兵し、三国同盟を振りかざしつつ、米国に対して石油の供給を求められるが、それは米国世論の承服せざる所である」と付言した。

 来栖大使の最後の外交努力の結果、126日、ルーズベルト大統領から昭和天皇に親電が発せられた。親電の趣旨は、もし日本軍が仏印から撤兵してもアメリカは同地に侵入する意図はない、周辺政府にも同様の保障を求める用意がある、南太平洋地域における平和のため仏印から撤兵してほしいというものであった。親電は中央電信局で10時間留め置かれ、最終的に昭和天皇のもとに届いたのは128日の午前3時(ハワイ時間では午前7時半で真珠湾攻撃予定時刻の30分前)であった。なお、20133月に公開された外交文書によれば、連合軍総司令部GHQ)は戦後、外務省に対して、伝達が遅れずに「電報が天皇陛下に渡されたならば戦争は避けることができたに違いない」との見解を示していたことが明らかになっている。この時点で米国は日本の侵攻を暗号解読により認識していた。現にグアム、フィリピンの米軍は臨戦状態を取っている。しかし、日本軍が遥か遠くのハワイ真珠湾を日曜日の朝に攻撃することは想定外だったようだ。日本の最後通牒が真珠湾攻撃に間に合わなかったことは、その後ルーズベルトにより「リメンバー パールハーバー」として米国内の戦意高揚に利用されたことは有名である。



かくして太平洋戦争の火ぶたは切って落とされた。振り返れば、日本のターニングポイントと考えられる事件、行動がいくつかある。今回の分析で何度もキーワードとなった「援蒋ルート」と中華民国重慶政府に対する連合国側の支援がある。日中戦争のきっかけは1937年の盧溝橋事件である。それまである意味「親日」であった蒋介石を「抗日」に転換させ、国共合作に向かわせた1936年の「西安事件」がある。中国との戦争を早期に終わらせたい日本とは裏腹に、戦争は泥沼化する。その原因である援蒋ルートの分断を図るため日本は仏印に進駐する。これは想定外の米国の反発を招いた。これに、ヨーロッパ戦線に米国を参戦させたいチャーチルのプロパガンダが加わり孤立主義を貫いてきた米国が連合国側になびいていく。

三国同盟もドイツのソ連侵攻、植民地化への野心、その布石とも考えられる。反米的な松岡外相によりすすめられるこの同盟はドイツのしたたかな戦略でもある。日本国内ではこの同盟に対し多くの反対意見が出されているが結局ヨーロッパ戦線におけるドイツの優位に目を奪われ、「バスに乗り遅れるな」と同盟締結を急いでしまう。この同盟は結果的に何のメリットも日本にもたらしてはいない。逆に戦後「日本が、ドイツ、イタリアと手を組み世界征服を考えていた証拠」とされる。日本の世界観の偏狭さと日和見主義の最たるものと言わざるを得ない。

「日米が戦うことは東洋における共産主義の拡大を意味する。これは日米のためにならない。」と主張した近衛首相の意見も傾聴に値する。現にソ連は、アメリカの要請により、太平洋戦争末期満州に侵攻し、日本の領土、利権を奪う。日中戦争が終わると、中国ではまたもや国共内戦が始り、ソ連の支援と満州の工業力を得た共産軍に蒋介石国民政府は敗北し、中国は共産化する。この時アメリカは蒋介石をあまり支援していない。第二次世界大戦後、世界は冷戦に突入し、朝鮮戦争、ベトナム戦争、ソ連のアフガン侵攻などアジアでのイデオロギー紛争が現実化し、アメリカは多大な出血を強いられる。戦前「日本は共産主義の拡大を恐れすぎる」としたルーズベルトの判断は軽率であろう。

日米関係だけに焦点をあてても、開戦前の1年間で急速に関係が悪化していることが分かる。ずっと過去から仲が悪かったわけではない。アメリカは経済恐慌からの立ち直りのため、幾度も日本に中国、満州の共同支配を提案している。ハル・ノートで米国は「中国」からの日本の撤兵を求めているがこれは「満州」からの撤兵を意味していないとされる。しかし日本はそう理解した。アメリカは中国を日本に独占されると思いこみ、重慶政府への支援と日本への経済制裁に踏み切った。日本軍の南部仏印進駐は決定的に米国の態度を硬直化させた。日本は当時最大の貿易相手国からの経済制裁を受け、「自存自衛」を名目に、援蒋ルートの閉鎖と資源の確保を目的に南方に進出する。ここでも日本の大きな誤算がある。世界中の国々は、日本の中国、東南アジア、そしてハワイと広大な地域への侵攻を「自存自衛」とは理解しなかった。

とにかく米国という当時のスーパーパワーを敵に回してしまったことは、両陣営にとってこの時点で勝負は見えたといっても過言ではない。当初の海軍の目論見では、未だ戦争準備の整わない米国に対し太平洋地域において奇襲により大きな被害をあたえ、戦意をくじき、早期講和に持ち込み日米交渉の懸案を有利に解決しようした。しかしその目論見はみごとに外れた。アメリカは自らヨーロッパの戦争に参加するために日本に先に戦争を仕掛けさせたという側面もある。そういう意味では、ドイツが敗北するまでこの戦争は終わらすことができなかったのである。真珠湾攻撃の時点で、その認識が日本側にあったであろうか。アメリカの本音を全く理解していない暴挙に出てしまったと言わざるを得ない。アメリカの潜在的な力をある程度知っていたリベラルな海軍がなぜこの攻撃に出たのか。このタイミングでの攻撃開始は、日本側の石油の備蓄の減少や東南アジアのモンスーンの影響、米軍の戦争準備、ソ連の南下の可能性などを考えるとこの時期しかなかったようだ。この時期を逃すと日本の優勢は望めず、経済は急速に悪化し、戦争もできないと考えられていた。

それにしても、「なぜ超大国アメリカを戦争の相手に選んだのか」という疑問は私の中で払拭できていない。歴史に「もしも」は禁句ではあるがあえて言うなら、この時点で日本が、米領への攻撃は注意深く避け、仏印、英領マレー、蘭印のみへの侵攻であれば孤立主義のアメリカは戦争をできなかったのではないだろうか。現にドイツはこれらのヨーロッパ諸国と既に戦争をしている。アメリカが日本を戦争に引きずり込んだという右派の説が納得性を持ってしまうのはこの点である。この部分は、もう少し研究する必要はある。

太平洋戦争における米軍の被害は戦死者10万人、日本の被害は中国戦線含め、軍人、民間人合わせて310万人である。そして、日本は、開戦時こだわった中国、満州での権益、東南アジアでの権益、明治以降獲得した領土をすべて失った。


歴史的事実は、時の為政者の気持ちとは裏腹に、パワーバランスによって動くのかもしれない。戦争の防止には、時の為政者の心情に左右されない仕組みが必要であろう。それは、法であり条約であり、物理的な軍備、兵器の管理の方法論であり、一つの国家の世界観に左右されない国際協調の仕組みであろう。


今回の分析で、戦後、「自由と民主主義の為に戦った」とされる連合国の国々も、また負けた「侵略国家」である枢軸国側の国家もその大儀とは裏腹に、自らの国益第一主義であったことが分かる。ドイツがヒットラーの台頭を許した背景には、ベルサイユ体制による諸外国の経済的締め付けがある。日本も米国からの経済制裁をうけ「自衛自存」的な行動をとる。どの国も領土的野心と自国の既得権益の確保が最重要課題であった。両者その行動原理に大差は無いようにも思われる。現代においても経済制裁はよく行われる非軍事的制裁手法である。しかし、制裁を受けた側は軍事制裁を受けたのと同じような被害をこうむる。

世界は過去の大戦から何を学んだのだろうか。残念ながら表現は違えども利己的な国家主義は現在も大きくは変わっていないようにも思う。このことを踏まえて安部政権の安保法制も議論されるべきであろう。戦後70年を期して今年行われる各国のイベント、そこで行われる過去の戦争への理解、その言動に注目したい。


近年、過去の歴史に対して、ある種反動的な理解がされるのをよく目にするようになった。これは、右派左派ともにある。今回の分析を通し多くの勉強させていただいた本がある。

−世界は太平洋戦争とどう向き合ったのか−山崎雅弘著、学研

この本は近年にはめずらしくイデオロギー的な偏向がなく、史実に忠実に世界の歴史を描いていると思う。感謝申し上げたい。


posted by kogame3 at 22:10| Comment(0) | 歴史認識
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