村上さんの作品をたて続けに読んだ。氏の作品が多くの読者に熱狂的に受け入れられていることは知っていたがそれが何故かを知りたかった。文が短く読みやすい。しかし ストーリーは難解で私のような年寄りが読むには体力がいる。情けないことに続けて読まないとストーリーを忘れてしまうのだ。もっと難解なのは作品の意味するところだ。現実と夢の世界がシームレスに繋がっている。リアリティーのある「性と暴力」の描写がある。シンパシーを感じていた登場人物の突然の死がある。氏の作品の多くが何を意味しているのか読者の方も不思議であるようだ。氏のホームページでは質問を受け付け、それに対して氏が応えている。応えてはいるが「私はこういうつもりで書いた。」というものではない。ストーリーに関して読者と一緒にその意味を考えているだけで「答え」を提示しているわけではない。氏が言いたいのは「私が物語を作っているのではない。物語が私をして語らしている。だから 小説は生きている。」という姿勢だ。書評にはその意味がわからず「単なるエログロと妄想」といった非難も見受けられる。無理もない。因果律で整理されたハウツーものの思考で読むと全く意味不明であることは確かだ。
しかし、拙筆のブログで紹介したユングの世界観で読むと理解は深まる。氏の作品によく登場する道具として「夢」「影」「森」「井戸」「神話」やシンクロ二シティー現象がある。夢は無意識の意識への投影である。影とは、生まれなかった自分が無意識の中で生きているもう一人の自分だ。井戸は無意識の闇の部分への入口だ。登場人物が、主人公の夢の中に現れ、意味のある事を言ったり、性行為をする。生霊の世界だ。性行為は、意識世界と無意識世界を繋ぐことだ。生と死を繋ぐと言ってもいい。また 井戸をのぞき、時に自ら入り込む。無意識の闇の部分を自分の意思でのぞく。これらは心理学的または哲学的解釈だ。氏の作品はこのユングの世界を下敷きに書かれている。と思われる。氏とユング研究者の河合隼雄さんとの対談が何度も行われている。ユングとの関係性に関しては『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)を読むとより理解が深まる。
氏の作品が読者の心をこれほどまでに引き付けるのは、氏の作品が無意識の世界を描いているからであろう。多分、無意識の世界で読者は登場人物とシンクロニシティーを起こしているのだ。時空を超えて。それは、論理で説明されるよりも遥かに強力に人々の心を揺さぶるのである。いや 論理では説明できない。本当に大切なものは言葉にできない。
氏の作品には「性」と「暴力」がよく描かれている。暴力のシーンは読むに堪えないほどのリアリティーをもって描かれる。暴力の背景には「恐怖と怒り」の感情がある。人間だれしもが心の底に持っている闇の部分だ。読者は自分の中にあるこの闇の部分に触れることができる。作品には、どこかしら心を病んでいる人や空虚な人生を過ごしてしまった登場人物が多い。彼らの心が病んだ原因は過去に受けた暴力であることが多い。そして、彼らもまた他人に暴力をふるってしまう。ときに殺人を犯してしまう。現実的な世界で、または無意識の世界で。氏の作品は直接的な意味での反戦や反暴力を主張しているのではない。しかし、読む者に戦争のもつ暴力性や犯罪のもつ暴力性に気づかしてくれる。そして、それらが人間の本性の中に内在されていることを気づかせてくれる。メタファーをとおして。
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