2015年04月02日

蒲生氏郷

 我が家の斜め後ろには 「信楽院」(しんぎょういん)というお寺がある。蒲生家の菩提寺である。

IMG_4330_1600.jpg

現在 本堂は大改修中である。本堂の天井には、日野町出身の著名な画家、高田敬輔(たかだけいほ)作の水墨画が描かれている。巨大な竜が荒れ狂うさまを描いた「雲竜(うんりゅう)」を中心に縦横11mの大きさがある

P1000408_1600.jpg
私は子どもの頃、その迫力に恐ろしさを感じていた。

そして、この 日野の地で生まれた最大の歴史的ヒーローが、蒲生氏郷であろう。
44151005_2.jpg

IMG_4340_1600.jpg
今も彼が生まれたときに使った産湯の井戸が日野城址(中野城址)に残されている。

 彼は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将で、1556年生まれ 幼名 鶴千代。幼少期 信長のもと岐阜城に人質に出される。信長は彼の才能を早くから見抜いており信長の次女 冬姫を妻にとらせている。キリシタン大名でもありクリスチャンネームはレオン。本能寺の変の折、彼は信長の家族をかくまい、日野城(中野城)へ走って手勢500騎、輿50丁、馬100頭、駄馬200頭を支度して明智光秀に対して対抗姿勢を示した。安土を攻めた光秀の一派は次は日野城攻めという寸前、光秀が山崎で倒れた。その後 氏郷は秀吉に仕え、天下統一のため奔走する。1584年に伊勢の国12万3千石を与えられ1588年松坂城を築城した。日野から近江商人を呼び寄せ、松坂の中心に住まわせ楽市楽座を設けた。一連の統一事業に関わった功により、天正18年(1590年)の奥州仕置において陸奥会津に移封され42万石(のちの検地・加増により92万石)の大領を与えられた。これは奥州の伊達政宗(会津は伊達政宗の旧領)を抑えるための配置であり、当初細川忠興が候補となったものの辞退したため氏郷が封ぜられたとされる。会津においては、町の名を黒川から「若松」へと改め、蒲生群流の縄張りによる城作りを行った。なお、「若松」の名は、出身地の日野城(中野城)に近い綿向神社(蒲生氏の氏神)の参道周辺にあった「若松の杜」に由来し、同じく領土であった松坂の「松」という一文字もこの松に由来すると言われている。7層の天守を有するこの城は、氏郷の幼名(鶴千代)にちなみ、蒲生家の舞鶴の家紋にちなんで鶴ヶ城と名付けられた。

IMG_4338_1600.jpg

我が家から300mほど東に進むと日野町最大の中心的な神社である綿向神社がある。例年5月3日に、日野町の人口には似つかわしくないほど盛大な日野祭りが営まれる。

IMG_4339_1600.jpg
今も、あおあおと茂る神社参道の杜は当時をしのばせる。

 氏郷は、1592年、文禄の役のおり、肥前名護屋へと出陣する。この陣中にて体調を崩し1593年11月に会津に帰国したが病状が悪化し、1594年春に養生のために京都に上洛し、秋には秀吉をはじめ諸大名を招いた大きな宴会を催した。しかしこの頃には病状がかなり悪化しており、1595年2月7日、伏見の蒲生屋敷において、病死した。享年40。あまりにも若い死に、暗殺説もある。その才覚を秀吉にうとまれ、東北の地に追いやられ(会津のみなさんすいません)天下の中枢にはなれなかった彼の無念も伝わっている。彼は、戦国武将としては珍しく、側室を置かなかった。だが二人の実子が早世し、蒲生家の血が絶えたため、このことが蒲生家断絶の遠因となったとされる。

彼の生まれた日野城(中野城)に隣接して日野川ダムがある。IMG_4349_1600.jpg
田植えの時期を前に満々と雪融け水を蓄えた日野川ダム。

IMG_4359_1600.jpg
今日 散歩の途中、その水辺で一羽のまっ白い鳥を見つけた。「鶴」か?やっぱり しらさぎだな。

posted by kogame3 at 23:54| Comment(0) | 文化
この記事へのコメント
コメントを書く
お名前:

メールアドレス:

ホームページアドレス:

コメント: