2015年09月26日

安保法制と歴史認識問題

 ねじれた歴史観が日本には存在する。ポツダム宣言、東京裁判、サンフランシスコ講和条約。戦争に負けた日本は戦前の政治、思想、文化、歴史を全面的に否定させられた。その歴史に客観的に触れることもタブーとされた。この歴史を見直すこと、すなわち歴史修正主義者というレッテルは一般的な日本人が考えているよりも重い言葉である。そのレッテルを貼られた時点でその政治家の政治生命は終わる。70年前、連合国側の圧倒的な軍事力により屈服し、押し付けられたこの歴史観は戦後教育の中で日本人の中にしっかりと根を下ろした。すなわち、日本は狂信的な国家主義者、全体主義者により世界征服を企て侵略戦争をアジア全域で行った。日本は、自由と民主主義のため戦った平和主義者の連合国に戦力的にも、正義の名においても負けたという歴史認識である。負けたことにより反省し、現在の平和憲法を得たという解釈である。


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サンフランシスコのオペラハウス。今もオペラの上演が行われている。1951年ここで吉田茂首相が連合国側との講和条約にサインをした。この条約の中で日本は東京裁判の判決を受け入れることを認めた。

 1950年に起こった朝鮮戦争、アジアにおける米ソ冷戦構造の顕在化は日本の立場を急変させた。アメリカは日本を急速に西側陣営に取り込む必要があった。戦後東アジアにおいて急速に勢力を拡大した共産主義勢力の台頭があった。早急に日本を共産主義に対する安全保障上の砦、不沈空母としなければならない。そのためには日本の急速な経済復興が必要である。また アメリカ軍の空白を埋めるため、日本の再軍備も進めなければならなくなった。警察予備隊、自衛隊の発足である。連合国=国際連合における安保理会は東西陣営の拒否権発動で早速機能不全に陥った。これらはすべてアメリカをはじめとする戦勝国側の都合である。ソ連の崩壊まで40年間続くこの東西冷戦構造は朝鮮戦争、ベトナム戦争という米ソの代理戦争を引き起こし、世界中にイデオロギー対立の嵐が吹き荒れた。日本は、この対立構造の中、世界政治に介入することから退き、アメリカの軍事的な傘の下、ひたすら経済発展の道を突き進んだ。日本は、1968年に早くもGNP世界第2位の経済大国に発展した。


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ニューヨークの国連ビル。

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国連ビルの横には銃がひん曲がっているモニュメントがあった。

 1990年代、ソ連の崩壊を機に東西冷戦構造は崩れた。世界に平和が訪れるという期待が高まった。しかし 急速に冷戦構造、軍事力のバランスが崩れたため、中東やバルカン半島ではもともと内在していた民族間対立のエネルギーが噴出した。湾岸戦争、コソボ紛争などが象徴的な紛争である。皮肉にも湾岸戦争では第2次大戦後初めて国際連合安保理事会が一致した採択を行い多国籍軍が組織された。日本は憲法の制約から多国籍軍には参加せず戦費分担金の一兆円を支払った。当時の国民世論は軍事力による紛争解決には消極的であった。しかし 人材支援を行わなかった日本に対して国際社会の対応は冷ややかだった。ここから 日本は平和維持活動という名目の人的支援ができる法整備に取りかかることになる。そして1992年PKO法案が可決される。国際社会(アメリカ)が日本の人的支援を求めているという風潮が国民の中にできつつあった。


 2001年9月11日米国同時多発テロが起こった。ハイジャックされた旅客機が次々とニューヨークの摩天楼やワシントンのペンタゴンに突っ込んだ。そのシーンは世界中にTV生中継され世界は震撼した。世界はテロとの戦いの時代に突入した。アフガニスタン、イラクなどテロの掃討を目的とする戦争が続いた。しかし イスラムを名乗るテロ集団の根絶は難しく現在もなおこの戦いは続いている。日本も憲法の範囲内ということで2003年から2008年まで自衛隊をイラクに派遣している。


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2013年当時はグランド・ゼロにはなかなか近づけなかった。近くにあったモニュメント。ここは 今でも弔問に訪れる人の列ができている。

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壁には献身的に人命救助を行った消防士をたたえるレリーフがあった。

 2010年代に入ると経済的に急成長した中国の存在がクローズアップされてくる。中国の軍備拡張とともに海洋進出も脅威となってきた。また 西側との協調で経済発展を遂げてきたロシアもプーチン大統領の出現により覇権主義的な行動が目立ってきた。クリミア、ウクライナ紛争である。逆に第2次大戦後一貫して世界の警察官を自負し、戦争を続けてきたアメリカの負担はピークに達しており、ある種の戦争疲れの厭戦機運がアメリカで高まってきた。オバマ大統領は中東などからの兵力の削減を図った。米国は東アジアや中東におけるアメリカの負担軽減とより積極的な日本の軍事支援を求めてきた。これが 今回の安保法制である。


 確かに東アジアにおける軍事的緊張は高まっているのだろう。しかし 1945年の敗戦によりあれだけ屈辱を強いられ、歴史的な反省を刷り込まれてきた日本人には当然戸惑いがある。まずもって過去の戦争に関する総括とそれに対する世界のコンセンサスが定まっていない。そのような状況で日本はおいそれとは海外派兵をすることはできないのである。そんなことをしてまたぞろ日本が「侵略者」呼ばわりされることだけは避けたい。アジア太平洋戦争の日本人戦死者310万人は何のために亡くなったのか。第2次世界大戦では5000万人以上の人が世界で亡くなっている。日本国内のみならず世界がその問いに応えることができていない。こんな状態で日本軍隊が海外に出て行って人殺しをすることは絶対に許されないことだと思う。アメリカの都合だけで日本は戦争をしてはいけない。かつてナチスとともに「世界征服」を企てた国家として、日本は 国連憲章の敵国条項にあたる国家である。そこには、「連合国の敵国(ドイツ 日本 イタリアなど)が外国に侵略行為を行った場合、国連安保理の許可なく軍事制裁を加えてもよい」とされている。「過去 世界征服を企て戦争を仕掛けた日本ですが、今度は世界の治安維持のため戦争をします」というような言い訳が通るほど国際政治は甘くない。世界の日本を見る目はいまだに複雑だ。現時点においてもなお海外派兵を許される国家でないことだけは確かだ。


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ワシントンの第二次世界大戦記念モニュメントである。戦争に勝ち続けている米国をたたえるモニュメントである。


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真珠湾奇襲攻撃の直後のルースベルトの国会演説が石碑に刻まれている。
1941127この日は醜行の日として生きつづけるでしょう。、、この計画的な侵略行為を克服するのにどんなに時間がかかろうとも、合衆国の国民はその正当性に基づいて、完全な勝利を勝ち取る所存です。」こんな国が海外派兵を許されるのだろうか?

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「自由の代償」として4048個の金星が飾られている。第2次世界大戦で亡くなったアメリカ兵の数である。星一つで100人の命を表す。

蛇足ではあるが、私たちの世代はこの平和な日本を子や孫の世代に引き継ぐ責務がある。どんなことがあっても戦争だけは避けなければならない。私がアメリカや日本各地で見てきた戦争の歴史は論理を超えたものである。戦争に正義なんてない。戦争はすべて悪だ。戦争に自衛なんてない。戦争はすべて侵略だ。戦争で殺し殺されるぐらいなら国家なんていらない。アナーキーと言われようがそれが現在の私の答えである。
posted by kogame3 at 14:46| Comment(0) | 歴史認識

2015年09月24日

アジア・太平洋戦争の真実

 9月5日に滋賀県平和祈念館での歴史セミナー、「なぜ、アジア・太平洋戦争の開戦は回避できなかったのか」一橋大学大学院 教授 吉田 裕 氏を聴講した。多くの貴重なデータに裏付けられた講義に歴史認識を新たにした。

 今回、私が知らなかった史実がいくつか得られた。その一つに、太平洋戦争初期においては、米軍よりもオーストラリア軍と日本軍との戦闘が主流だったということがある。1943年からは米軍の戦争準備が整い日本軍との戦闘が増えたようだ。オーストラリア軍との戦いであったニューギニア戦線が太平洋戦争の分岐点ではないか。という視点である。確かにが真珠湾攻撃やミッドウェイ海戦、ガダルカナル作戦など初戦の日本軍の目的は、米軍とオーストラリア軍の連携を太平洋において分断することにあったとされる。昭和17年、18年に、日本軍はオーストラリアの空軍基地を中心に空爆も行っている。戦後のオーストラリアの対日感情がすこぶる悪かったのもこのためである。日本の教科書にそのことの記載がないことに対してオーストラリア政府から日本に申し入れがあったということだ。


 もう一つの話としては、年代別の戦死者のデータに関することである。この大戦における日本側の戦死者は兵士が230万人、一般市民が80万人であるとされている。しかし いつどこで何人の方が亡くなっているか、詳細データが無い。驚くことに日本国家に命をささげた人がいつ、どこで、どのように亡くなったのか、国家としてのデータがないのである。戦後もこの調査は進んでいないし、戦地での遺骨収拾も進んでいない。戦争記憶の風化が進み、調査は難しくなっている。唯一残っているのは岩手県内の戦死者統計である。それによると岩手県では終戦前後1年間に全戦死者の90%近くの人が亡くなっているという。日本全国で見ても、一般人が多く殺されている東京大空襲をはじめとする都市空爆、沖縄地上戦、広島、長崎への原爆投下、ソ連の侵攻、シベリア抑留など終戦前後の死亡者が多い。これらはすべて昭和20年に入ってからの死亡である。このデータからは、日本は戦争を早期に終了させることが出来なかったことで、甚大な犠牲者を出してしまったことがうかがえる。今からでも戦争を行った国家の責任としてこの調査をしっかり行い未来への負の遺産とするべきであろう。


 この講演会会場には60名を超える多くの市民が参加し、質問コーナーでは活発な質疑があった。みなさん歴史認識に関しては熱心である。私も専門家の意見が聞きたくって質問をした。

(私)「自分はなぜ 日本が桁違いの国力を持つアメリカに対し戦争を仕掛けたのか今でも疑問に思っている。援蒋ルート封鎖のため、1941年の南部仏印への日本軍の進駐が一つの原因であると思っている。・・中略・・この進駐に対しての理解に日米双方に大きな齟齬があったのではないか」という私の持論に対して先生のご意見を聞いた。先生の反応は少し意外であった。

「南部仏印への日本の進駐を正当化するのは間違いで それは当時の陸軍がでっち上げた虚構である。ただし 米国などの国際社会に対し孤立していた日本が国際世論を味方につけられなかった。中国は巧みに国際社会を味方につけていった点は原因の一つになろう。・・・」

私の質問の意図と結論は変わらないが私が話した歴史認識の少しの違いに講師の方が反応された点に少し驚いた。講師の先生の立場をネットで調べるといくつかの点が明確になった。先生は最近の世論の右傾化を憂慮されている点、南京虐殺に関しては10数万人の犠牲者があったという立場をとっている点、天皇の戦争責任を注意深く追及している点などがわかった。リベラルな立場をとられている学者さんなのだ。


 私個人としては現在の政治的な立場、イデオロギーによって偏向したの歴史観を持つのはのはいかがなものかと思う。現在ネットをたたけば極端に右傾化した論調が目立つ。彼らは南京虐殺や慰安婦問題はなかった、左派や近隣諸国のでっち上げだとしている。日本の過去の戦争は自存自衛の戦いであり日本は無罪であるとする論調が多い。その延長線上に安保法制議論もある。現実的に軍事力に頼らなければ日本を護れないとする立場である。政治的に対立するリベラル派を非難し、最終的には改憲を目指す。かたやリベラルな立場の人たちは、加害者としての過去の歴史に着目する。中国や韓国との間の歴史認識問題に関しても先方の論理を鵜呑みにする傾向がある。右派が軽蔑する自虐史観である。両者の議論の開きに戸惑いを感じる国民も多いのではないだろうか。マスコミを含め両者の接点を探ろうとする動きはほとんど見られない。結局 安保法制は参院で強行採決されてしまった。両者の主張の違い、その根幹は何なのか、なぜ双方が歩み寄れないのか。テクニカルな議論に終始している国会答弁、国民の理解が進んでいないと両者とも認識している。今回の安保法制議論での国民の混乱の真の原因は、両者のギャップの大きさにあるのではないだろうか。それは過去の戦争に対する歴史認識から始まり、両者の根本的な世界観が違うためである。国会ではなぜそこに踏み込んで議論できなのだろう。そこには未だ歴史のタブーがあるのではないだろうか。民主主義は単なる多数決ではない。安保法制強行採決の後味の悪さはまだまだ後を引きそうだ。

posted by kogame3 at 16:20| Comment(0) | 歴史認識

2015年09月15日

稲刈り

 友人宅の稲刈りを手伝った。日本の米政策や食糧事情に関しては偉そうなことを言う私だが百姓仕事はこの歳になって初めての経験だ。現在の百姓仕事は機械化が進み力仕事はあまりない。しかし 設備投資とその減価償却を考えるとお百姓さんのそろばん勘定は極めて厳しいのが現実である。田植え機、コンバイン、耕運機と少なくとも3機種は必要だ。当然 米を運ぶための軽トラック、草刈り機などもいる。年に一度使うだけのこれらの機械ではあるが当然毎年メンテナンス費用もかかる。白米に仕上げるまでには、モミを乾燥機で乾燥し、もみ殻を剥き、玄米を精米機で白米になるまで磨き上げる。また、苗や肥料、農薬を購入する費用も必要だ。これに人件費がかさむ。かなり大きな田んぼをよほど効率よく運営しないと採算がとれる仕事ではない。多くの農家が先祖から受け継いだ田畑の維持と後継者の不足に悩んでいる。どのこ農家も高齢化している。この先日本の少子高齢化、人口減少を考えると今の田畑の景観を残していくのは極めて困難と言わざるを得ない。

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今年は、猛暑ではあったが9月の日照時間は極めて少なかった。稲刈り前の数日の天気でコメの出来が大きく違うようだ。

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コンバインの運転は小型の戦車のようで面白い。しかし 秋とは言え、炎天下の作業は暑い。

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コンバインに集められたモミ袋を軽トラに移す。

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軽トラに積めるだけ積んでカントリーエレベーターに運び込む。

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田植えも同じであるが、日本中で稲刈りは同時期一斉に行われる。当然カントリーエレベーターへの納入には軽トラの長い列ができる。日本人が周りの人間と同じ行動をとるという「文化」はここからきているという説がある。子供のころ読んだ「日本人とユダヤ人」に書いてあったのを思い出した。農家により作業時期を変えることができれば農業機械も共同で使えるのだろうが。こればかりは、自然相手の作業なので限界がある。

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稲刈りが済むとすぐにシラサギが近寄ってくる。稲が刈られた田んぼでは、エサになるカエルやミミズが一斉に地表に出てくるからだ。言葉を持たない彼らはどこでそのことを覚えるのだろう。人間が農耕を始めたのはシラサギという生物の進化に影響を与えるほど昔ではないはずだが。
posted by kogame3 at 20:18| Comment(0) | 日記