先日、義母が他界した。近年は認知症が進み、施設にお世話になっていた。最後は病院への入院となりその時間は長くはなかった。高齢なので覚悟はしていたもののやはり人の死は大きなショックを周囲の人間に与える。臨終は急に訪れ、葬儀の手配や親戚への連絡など親族は悲しみに暮れる暇もない。通夜、告別式、初七日法要と連日の儀式は、残されたものに悲しみを忘れさせるための手段のような気もする。とにかく、人が亡くなるということは大変なことだ。
安倍政権が進める一部の集団的自衛権を容認し、法制化するための議論が国会で続いている。ここにきて憲法学者達の「違憲」判断が表明され、マスコミはじめ世論は法制化反対に傾いてきたように感じる。政府は、従来の政権が「集団的自衛権の行使は違憲」としてきた憲法解釈を変更する。日本を取り巻く国外情勢の変化、特に中国、北朝鮮という国家の侵略行為に備えるためとする。しかし、集団的自衛権の行使に地理的な制約はないとする。背後には世界の警察管を自負してきたアメリカ、その政策転換が見え隠れする。憲法9条をどう読んでもそんな理解は出来ないように思う。9条には国際紛争の解決手段として一切の武力を使わないことが明記されている。最大限の理解として、外国の軍隊やテロ集団が日本国内で侵略行為(犯罪行為)をした場合、国内法に基づく警察権の行使、その延長として警察予備隊が治安を維持する組織として存在するぐらいが解釈の限度であろう。
「侵略」と「自衛」の解釈は、人類永遠の課題でもある。あの太平洋戦争開戦時でも日本は「自存自衛」のための止むをえない宣戦布告だと当時から明言している。マッカーサーでさえ、米国国会での公聴会で同様の発言をしている。人間はどんな理由でも言葉で作り出せる。少なくとも近代においてはどの国も自衛のための戦争しかしていない。「侵略と自衛」の概念とはその程度のものである。極論すれば同じようなものである。しかし ひとたび戦争となればおびただしい人が死ぬ。自分が死なないためには人を殺さなければならない。戦争は、殺し合いで物事の決着をつけるということだ。第二次世界大戦では世界で5500万人以上の人が死んでいる。日本だけでも310万人が死んでいる。いや 殺されている。世界はその死から何を学んだのだろう。国家とはそれほどの数の殺人に値するだけの価値のある代物だったのだろうか。戦死はそれほど英雄的な行為だったのだろうか。私にはよくわからない。最近 若者が仲間をいじめて殺す事件が多発している。本当に悲しい事件が多く、心が痛む。しかし 一旦戦争となれば、だれもがその憎むべき殺人者になるのである。国家のために殺人をするのである。それも出来るだけ大量に。故に 自衛戦争だからと言ってたやすく武力を使ってはいけない。
人の命をもって物事の決着をつけることは、理由の是非にかかわらずいけないことだと思う。身内の死がこれほど悲しいのに、国家のために殺人をすることが悲しくないはずがない。殺人を正当化する理由は、世の中にない。日本の年間医療費は40兆円である。これほど死を忌み嫌う国民が命を国家に捧げるはずもないか。