2015年04月23日

戦争に関する考察 そのA

人類の歴史は戦争の歴史である。血塗られた歴史である。幾度も戦争を経験し、その反省をし、いろいろな工夫をこらしてきた。しかし、戦争は繰り返す。なぜなのか。現時点での私の仮説を以下に述べる。


人間がまだ原始人であった頃、世界は危険に満ち溢れていた。人間の天敵である猛獣がいて、いろいろな天変地異や病が人間をおそった。食料は自然にある植物や動物であるが、こと植物に関していえば、多くの植物が毒をもっていた。まだ熟していない青い植物を食べると、おなかをこわして下痢をした。それらの情報はDNAに深く刻まれていった。現代に生きる子供たちが青い植物(ネギやピーマン)を嫌うのもそのDNAの影響だ。DNAは、「利己的な遺伝子」と言われるぐらい「種の保存本能」を動物の肉体に植え付ける。

人間は、危険を回避するための一つの手段として集団で生活を始める。助け合うことで人間は大きな危険と向き合える。人間は、集団で生活するために、何らかのコミュニケーション手段をとっていた。コミュニケーションの基本は、相手の立場にたって想像をするということだ。でないと、相手に自分の意思が伝わらない。集団の中では、多くの他人の死を目の当たりにする。他人の死をみて、それがいつか自分自身にも降りかかるのではないか、という想像、「死」という「恐怖」の観念が生まれた。

人間の脳が他の動物と比べて巨大化した理由はいくつか仮説が考えられている。ここではその仔細には触れない。しかし、人間はその巨大化した脳の中で「死」という恐怖観念を日増しに大きくしていった。その恐怖を少しでも和らげるために、人間は危険がいっぱいのこの世界で安全に生活するための情報を集めた。他人の死や病気、怪我をみて、そこからその原因を探った。食べられる植物は何か。毒をもっている動物はどれだ。肉をほっておけばすぐに腐る。火であぶれば、おなかをこわすことが少なくなる。火はまた体を温め寒さを防げる。火はどこにあるのか。どうすれば食料は備蓄できるのか。危険な場所はどこだ。水はどこにある。そして、二本足で歩く人間は食料を採るための道具を手にする。これらは安全に生きるための情報として、人間の集団に蓄積されていく。有効性の高い情報が知恵として集団に受け継がれていく。恐怖が、科学技術を発展させたことは疑いのない事実であろう。

人間は集団生活の中で言葉を得る。コミュニケーションの手段である言葉は、抽象化された知恵でもある。具体的な現物が目の前になくても、自分の意思を相手に伝えられる。また、言葉と知恵は人間に対し、少しだけ未来に起こることを想像する力を与えた。人間は言葉を持つことによりそれを用いて思考をすることになる。抽象化された言葉は爆発的に観念を飛躍させる。死への恐怖は、現実がそこになくても、抽象化され肥大化していく。人間は未来に起こるであろう恐怖にも怯えることになる。未来を予測する「予言」が必要とされる。考古学上、あらゆる人間の集団に「宗教」が存在していたことが証明されている。たぶん宗教の発生も、この死の恐怖が生んだ知恵なのだろう。このようにして、最初は、個人的感情であった恐怖心は集団のそれに置き換わっていった。そしてそれは他の動物とは比較にならないほど肥大化していく。


かくして人間集団は互いに争いをするための条件をそろえていった。食料が少ない時代、他の集団に自分の備蓄食料を奪われることは、自分たちの死を意味していた。「怒り」を覚えた。自分たちの食料が底をつき死の恐怖にさらされたとき、他の集団の食料を奪った。怒りが人々を突き動かした。「死の恐怖」と「怒り」はこのように表裏の関係にある。死の恐怖の抽象化、肥大化はどんどんエスカレートする。そして他の集団がいつ自分たちの存在を犯す危険集団に変質するかもしれない、という恐怖観念が人の心を支配した。必然的に集団は常に他の集団に対し「排他的」になる。すべての人間集団がこの世界で裕福に生きていけるほど自然は豊かではないのだ。この時、食料を採る道具は、「武器」と同義語になった。

 いつしか人間の集団の中には、危険をかえりみず新しい挑戦を行い、経験を積み知恵を得て、集団に新しい知恵を提供する人間も現れた。彼は他の人より多くの情報、知恵を持っていた。それは人々からすれば「予言者」のように見えたことだろう。当然彼は尊敬を集めた。「リーダー」の出現だ。恐怖におびえる人々はリーダーにすがりついた。リーダーはまた、自分の権力を守るために、人々の恐怖心を煽った。怒りを煽り、ねつ造した。そうすることで、自分の地位はますます高まっていく。また 人間を階層に分け、序列をつけることを覚えた。階層支配は、集団の統治の効率を上げた。食料をはじめ、富の分配は階層ごとに序列がつけられた。こうして自分の恐怖感は和らいでいくのである。リーダーは、権力の魅力に取りつかれた。いつ蹴落され、殺されるかわからないという恐怖から権力欲が生まれ、これまた肥大化していく。宗教を利用することも覚えた。その教義を、自分の権力拡大、強化に都合のいいように書き換えていった。時を経て、人間集団は巨大化し社会となった。宗教は、集団統治のための「法」となった。教義には、注意深く、権力を守るための方法論が刻まれた。人間が持っている助け合いの心が「愛」だ。秩序が「道徳」だ。権力者は、宗教の表層を「道徳」と「愛」でくるんだ。実に巧妙だ。宗教は権力と結びつき、そして人々の人生の目的は宗教となった。人間は、人生の多くの時間やエネルギーを宗教のための尽くすことになる。限られた生活資源を集団だけで独占するための排他性も同時に備え持った。歴史上これら人間集団の営みを「文明」と呼ぶ。


戦争の装置は出そろった。この間、恐怖の観念はどんどん増幅していく。人間は最初、自分の死を恐れて恐怖の観念を持ったにも関わらず、恐怖の観念は肥大化し、ついにそれは人間個人の死の恐怖以上の大きさになってしまった。人間は、自己の属する集団を守るため自分の命を投げ出すようになってしまったのである。本末転倒も甚だしい、決定的なことが起こった。兵士の出現である。しかし人間集団は彼らを英雄とあがめた。それは、人間個人の深層心理に刻まれた恐怖が社会全体でシンクロナイズした証拠だ。結果、兵士が、集団のリーダーとなる時代が続いた。

宗教の名のもと多くの戦争が起こった。宗教は人生の目的であるから、人々は殉教という死を選んだ。為政者であるリーダーは、人々の潜在的な怒りのエネルギーを掻き立て、恐怖心を煽り、宗教の持つ排他的な力を使い、国家という暴力組織を作り上げた。そして、正義の名のもと他の国や地域を侵略した。国家に尽くし、命をささげることが英雄視された。排他性は、同じ人間を数百万人、数千万人殺しても良心の呵責さえ覚えないまでに高められた。この排他性は、道徳や愛といった価値よりも高いものであった。今までに起こった戦争は、勝ち負けと関係なく、例外なくこの図式で行われ同じ構造を持っている。国家は人格を持つかのように恐怖におびえる存在である。世界の生活資源は、いつの時代も潤沢ではない。常に格差がある。国家はこの国家間格差に耐えられない。国家の言う「正義」とはこの格差是正のことで、基本的に侵略を意味する。国家間に法や秩序は存在しない。弱肉強食の世界だ。そのことを世界のリーダーは知っている。戦争の勝者が歴史を書き換えるだけであり、本当の真実は語り継がれない。戦争に負けることは「悪」なのである。戦争では、勝負と正邪は混同される。


残念ながら、今も世界はその延長線上にあるとしか思えない。通常、人間は自己の意識の中では理性の皮をかぶっている。そして 人前ではポジティブな感情である「愛」や「道徳」を語る。しかし、何かをきっかけに「怒り」が噴出し、恐怖におびえる。人間は原始の時代にDNAに刻まれた深層心理から湧き立つこの恐怖観念を抑えきれない。それが、理性の抑制を振り切り、他の人の恐怖心や怒りの感情とシンクロナイズしたとき戦争が始まる。戦争とは人々の恐怖心が組織化されたとき起こるのである。なぜかその瞬間、すべての理性的な論理が破滅し、価値が逆転し、怒涛のカオス状態に陥る。怒りや恐怖の噴出に対する「理由」はすべてリーダーがねつ造し、後から人々に提示してくれる。常に自分たちは、被害者であり、それは正義であったと。これが、人間社会において、戦争が繰り返し発生し、反省しても無くならない本当のメカニズムである。


万里の長城は数千キロにおよぶ巨大な建造物で、人間の恐怖心の具現化とされている。しかし、現在 各国の核兵器保有数は、地球全体を何度も破壊できる規模にまで巨大化している。人間社会の恐怖の増幅現象は今もまだ続いているのだ。ひとつの国家を守るために地球を何度も破壊できる武器が有効なのか??恐怖の観念はこんな簡単な理性でさえ破壊している。歴史的にみて、理性で感情をコントロールできない人間集団が、これまた技術的に制御できない核の力を持ってしまった。その状態が、あたりまえになり思考停止に陥っている。銃が悪いのではない、引き金を引く人間が悪いと言う。しかし、今は銃の安全装置が外され引き金に指がかかっている状態だ。リーダー一人の恐怖心が臨界を超えたときその引き金が引かれ、瞬時にしてこの地球は破壊され無くなる。これは比喩やSFではない。物理的に地球が無くなるということだ。何万年も生き抜いてきた人類全員が、一人の人間のたった一瞬の気の迷いで無になるということだ。どんな正義も崇高な精神の理由づけも、そして宗教も全く意味のない無に帰するのだ。過去の繰り返し行われた戦争の歴史を考えると、確率論的にほぼ100%近くそれは現実化する。唯一歴史と違うところは、それが起こればもう人間はそのことを反省することもできないということだけだ。地域紛争やテロは核問題と切り離して論じられることが多いが、「恐怖心」と「怒り」という切り口では、構造は全くおんなじに見える。恐怖の観念という怪物が一人歩きし人類を食ってしまうということだ。国家が人格を持つとすれば、彼は潜在意識の中の巨大な恐怖観念によって精神を蝕まれている。重篤な精神疾患にかかっている言わざるを得ない。そして、、、彼は、自殺寸前である。


人間は大人になると青い野菜もおいしく食べられるようになる。理性的な知恵が本能的な恐怖に打ち勝つことは教育や訓練により可能だ。恐怖感は制御可能だ。今はそう信じるしかない。

posted by kogame3 at 11:58| Comment(0) | 歴史認識