2015年04月29日

村上春樹さんの作品

 村上さんの作品をたて続けに読んだ。氏の作品が多くの読者に熱狂的に受け入れられていることは知っていたがそれが何故かを知りたかった。文が短く読みやすい。しかし ストーリーは難解で私のような年寄りが読むには体力がいる。情けないことに続けて読まないとストーリーを忘れてしまうのだ。もっと難解なのは作品の意味するところだ。現実と夢の世界がシームレスに繋がっている。リアリティーのある「性と暴力」の描写がある。シンパシーを感じていた登場人物の突然の死がある。氏の作品の多くが何を意味しているのか読者の方も不思議であるようだ。氏のホームページでは質問を受け付け、それに対して氏が応えている。応えてはいるが「私はこういうつもりで書いた。」というものではない。ストーリーに関して読者と一緒にその意味を考えているだけで「答え」を提示しているわけではない。氏が言いたいのは「私が物語を作っているのではない。物語が私をして語らしている。だから 小説は生きている。」という姿勢だ。書評にはその意味がわからず「単なるエログロと妄想」といった非難も見受けられる。無理もない。因果律で整理されたハウツーものの思考で読むと全く意味不明であることは確かだ。


 しかし、拙筆のブログで紹介したユングの世界観で読むと理解は深まる。氏の作品によく登場する道具として「夢」「影」「森」「井戸」「神話」やシンクロ二シティー現象がある。夢は無意識の意識への投影である。影とは、生まれなかった自分が無意識の中で生きているもう一人の自分だ。井戸は無意識の闇の部分への入口だ。登場人物が、主人公の夢の中に現れ、意味のある事を言ったり、性行為をする。生霊の世界だ。性行為は、意識世界と無意識世界を繋ぐことだ。生と死を繋ぐと言ってもいい。また 井戸をのぞき、時に自ら入り込む。無意識の闇の部分を自分の意思でのぞく。これらは心理学的または哲学的解釈だ。氏の作品はこのユングの世界を下敷きに書かれている。と思われる。氏とユング研究者の河合隼雄さんとの対談が何度も行われている。ユングとの関係性に関しては『村上春樹、河合隼雄に会いに行く』(新潮文庫)を読むとより理解が深まる。


 氏の作品が読者の心をこれほどまでに引き付けるのは、氏の作品が無意識の世界を描いているからであろう。多分、無意識の世界で読者は登場人物とシンクロニシティーを起こしているのだ。時空を超えて。それは、論理で説明されるよりも遥かに強力に人々の心を揺さぶるのである。いや 論理では説明できない。本当に大切なものは言葉にできない。


 氏の作品には「性」と「暴力」がよく描かれている。暴力のシーンは読むに堪えないほどのリアリティーをもって描かれる。暴力の背景には「恐怖と怒り」の感情がある。人間だれしもが心の底に持っている闇の部分だ。読者は自分の中にあるこの闇の部分に触れることができる。作品には、どこかしら心を病んでいる人や空虚な人生を過ごしてしまった登場人物が多い。彼らの心が病んだ原因は過去に受けた暴力であることが多い。そして、彼らもまた他人に暴力をふるってしまう。ときに殺人を犯してしまう。現実的な世界で、または無意識の世界で。氏の作品は直接的な意味での反戦や反暴力を主張しているのではない。しかし、読む者に戦争のもつ暴力性や犯罪のもつ暴力性に気づかしてくれる。そして、それらが人間の本性の中に内在されていることを気づかせてくれる。メタファーをとおして。

posted by kogame3 at 11:48| Comment(0) | 日記

2015年04月27日

ユング

私がはじめてユング心理学に触れたのはもう20年ほど前になる。ユング心理学は河合隼雄さんによって広く日本に紹介された。最初、私にとってユング心理学は全く理解不能だった。当時、私は−物事はすべて原因と結果の因果律で成り立っている−という思考に支配されていた。科学的に物事を見ることがすべてであり、そうでないものは排除されるべきであると考えていた。会社員であった私は、物事があまりに非論理的に決定されていく状態に憤りさえ覚えていた。かたや、自分の感情がどこから来ているものか自分自身でもよくわからないと感じていた。怒りや喜び、悲しみや楽しみの感情はどこから湧いてくるのか、因果律を見いだせずにいた。喜怒哀楽といった感情は、何かのきっかけで心の底から意識の世界に突然出現するのだ。後から、この感情の出現をこのきっかけのせいに作り変えているだけだ。その証拠に、同じ事象がおこっても腹の立つとき立たないときがある。体感的には、空中をさまよっているそれらの感情が突然自分に取り付くという感覚がある。まあ こっちの方がより非科学的だ。こんなふうにして、フロイト心理学を経て、ユングの世界を徐々に理解していった。心の構造図はいかにも自然科学的な理解の仕方だが、その辺は西洋人的でもある。こういう図で、心の働きを理解すれば多くの現象が説明しやすいということだろう。


ユング心の図.jpg


ユングのすごいところは、人間の心に共通に存在するとした「普遍的無意識」の提唱だろう。人間は、みんな人類共通の無意識を持っているとすることだ。そして、この普遍的無意識は、空間を超え人々のこころの中で共鳴しているということだ。これをユングは「シンクロニシティー」(synchronicity)と呼んだ。離れた場所で、同じ時間に、自然科学的には「偶然」同じことや意味がつながっていることが起こる。そして、それは何らかの意味を暗示している。すくなくとも、多くの人々の心の中で同時に同じ感情が湧く。一つの証拠として世界中に伝わる神話は地域間に文化的交流がなくても非常に似た内容がある。形を変え同じような深い意味が内在されている。としている。にわかには信じがたい話ではある。しかし、人々の感情がどこから来ているかわからない現在、これも仮説の一つとして受け入れざるを得ない。 


前回のブログで私は戦争発生のメカニズムを述べた。「恐怖」や「怒り」といった無意識の中の「闇」の部分が為政者により扇動され、それが社会の中で共鳴(シンクロナイズ)するとき戦争が勃発するとした。ユングもヒットラーのユダヤ人迫害を同じ論理で分析している。太平洋戦争でも日米の為政者やマスコミの扇動により同じことが起こったのだろう。国内問題が大きくなり自らの政治生命が脅かされるときに、為政者は同じテクニックを使う。現在起こっている中国の日本バッシングは、中国政府が、天安門事件で民衆を弾圧した時から急速に強化された。韓国の経済格差は深刻で、国内民衆の不安は強い。アジア通貨危機を境として急速に日本の戦争犯罪を糾弾する論調が強まる。最近ではギリシャの債務問題がある。ギリシャ政府は大変な緊縮財政を国民に課している。民衆の不満は爆発寸前だ。ギリシャは突然ナチスによる70年以上前の戦争被害への賠償金36兆円を現在のドイツ政府に要求した。これらの事例に共通するのは、自国民の政権への不満、怒りを、他国民(この場合では日本)に転嫁するとういう政治手法が取られたと考えられる。このようなスケープゴートを作ることにより、怒りの矛先が自らの政権に向かうのをかわし、国家をまとめるエネルギーに変換するのである。日本はこの挑発にのってはいけない。飽くまでこれは危険な政治ゲームなのである。ただしこれは日本の犯した戦争犯罪が免罪されるという話では決してない。


『利己的な遺伝子』(ドーキンス)によると、遺伝子には、「自己の成功率(生存と繁殖率)を他者よりも高めること」というプログラムが書き込まれている。人間の肉体は、この遺伝子情報に支配され、思考や行動が決定される。としている。この本は、多大な動物生態のデータをもとに書かれており、きわめて科学的な分析と論理で構成されている。遺伝子情報は、細胞分裂するときにDNAがコピーされ、過去から未来へとこの情報が引き継がれていく。コピーミスが奇形を発生させ、自然淘汰のスクリーニングにより進化が生まれる。人間の営みが遺伝子情報という無形のものに支配されていることが証明された。


私は 次のような大胆な仮説を持っている。人間の思考、行動の多くを司っているのは「無意識」から湧き上がる感情である。すなわちユングが提唱した普遍的無意識とは、人類が太古の遺伝子情報から受け継いできた「自己の生存確率を高める」プログラムのことではないだろうか。そして、言葉のまだない原始時代に、人々はこの普遍的無意識という経路を通してコミュニケーションをはかっていたのではないだろうか。人類の遺伝子はかなり類似している。肉体が同じ構造をしているように心の構造も細部まで似ていても不思議ではない。ゆえに非言語的なコミュニケーションは取りやすい。感情の発露である顔の表情は、一つの非言語コミュニケーション手段だが、それは世界人類おんなじだ。個々の人間が持つ遺伝子情報は、よく似ており、集団で共鳴する性質を持っている可能性はある。


最後に 私が尊敬する哲学者の池田晶子さんが、中学3年生向けの国語教科書に書かれた『言葉の力』からの一節を引用する。

−人間が言葉を話しているのではない。言葉が人間によって話しているのだ。−

この強烈なメッセージに対し、多くの共感とともに批判も相次いだ。しかし、批判の多くは物事を単純な因果律の中に押し込めようとし、自分の理解できない事象に対して排除しようとしている輩だ。彼らの貧弱な精神こそ戦争の温床であろう。遺伝子が人間をして言葉を語らしむのではないだろうか。


posted by kogame3 at 13:01| Comment(0) | 日記

2015年04月23日

戦争に関する考察 そのA

人類の歴史は戦争の歴史である。血塗られた歴史である。幾度も戦争を経験し、その反省をし、いろいろな工夫をこらしてきた。しかし、戦争は繰り返す。なぜなのか。現時点での私の仮説を以下に述べる。


人間がまだ原始人であった頃、世界は危険に満ち溢れていた。人間の天敵である猛獣がいて、いろいろな天変地異や病が人間をおそった。食料は自然にある植物や動物であるが、こと植物に関していえば、多くの植物が毒をもっていた。まだ熟していない青い植物を食べると、おなかをこわして下痢をした。それらの情報はDNAに深く刻まれていった。現代に生きる子供たちが青い植物(ネギやピーマン)を嫌うのもそのDNAの影響だ。DNAは、「利己的な遺伝子」と言われるぐらい「種の保存本能」を動物の肉体に植え付ける。

人間は、危険を回避するための一つの手段として集団で生活を始める。助け合うことで人間は大きな危険と向き合える。人間は、集団で生活するために、何らかのコミュニケーション手段をとっていた。コミュニケーションの基本は、相手の立場にたって想像をするということだ。でないと、相手に自分の意思が伝わらない。集団の中では、多くの他人の死を目の当たりにする。他人の死をみて、それがいつか自分自身にも降りかかるのではないか、という想像、「死」という「恐怖」の観念が生まれた。

人間の脳が他の動物と比べて巨大化した理由はいくつか仮説が考えられている。ここではその仔細には触れない。しかし、人間はその巨大化した脳の中で「死」という恐怖観念を日増しに大きくしていった。その恐怖を少しでも和らげるために、人間は危険がいっぱいのこの世界で安全に生活するための情報を集めた。他人の死や病気、怪我をみて、そこからその原因を探った。食べられる植物は何か。毒をもっている動物はどれだ。肉をほっておけばすぐに腐る。火であぶれば、おなかをこわすことが少なくなる。火はまた体を温め寒さを防げる。火はどこにあるのか。どうすれば食料は備蓄できるのか。危険な場所はどこだ。水はどこにある。そして、二本足で歩く人間は食料を採るための道具を手にする。これらは安全に生きるための情報として、人間の集団に蓄積されていく。有効性の高い情報が知恵として集団に受け継がれていく。恐怖が、科学技術を発展させたことは疑いのない事実であろう。

人間は集団生活の中で言葉を得る。コミュニケーションの手段である言葉は、抽象化された知恵でもある。具体的な現物が目の前になくても、自分の意思を相手に伝えられる。また、言葉と知恵は人間に対し、少しだけ未来に起こることを想像する力を与えた。人間は言葉を持つことによりそれを用いて思考をすることになる。抽象化された言葉は爆発的に観念を飛躍させる。死への恐怖は、現実がそこになくても、抽象化され肥大化していく。人間は未来に起こるであろう恐怖にも怯えることになる。未来を予測する「予言」が必要とされる。考古学上、あらゆる人間の集団に「宗教」が存在していたことが証明されている。たぶん宗教の発生も、この死の恐怖が生んだ知恵なのだろう。このようにして、最初は、個人的感情であった恐怖心は集団のそれに置き換わっていった。そしてそれは他の動物とは比較にならないほど肥大化していく。


かくして人間集団は互いに争いをするための条件をそろえていった。食料が少ない時代、他の集団に自分の備蓄食料を奪われることは、自分たちの死を意味していた。「怒り」を覚えた。自分たちの食料が底をつき死の恐怖にさらされたとき、他の集団の食料を奪った。怒りが人々を突き動かした。「死の恐怖」と「怒り」はこのように表裏の関係にある。死の恐怖の抽象化、肥大化はどんどんエスカレートする。そして他の集団がいつ自分たちの存在を犯す危険集団に変質するかもしれない、という恐怖観念が人の心を支配した。必然的に集団は常に他の集団に対し「排他的」になる。すべての人間集団がこの世界で裕福に生きていけるほど自然は豊かではないのだ。この時、食料を採る道具は、「武器」と同義語になった。

 いつしか人間の集団の中には、危険をかえりみず新しい挑戦を行い、経験を積み知恵を得て、集団に新しい知恵を提供する人間も現れた。彼は他の人より多くの情報、知恵を持っていた。それは人々からすれば「予言者」のように見えたことだろう。当然彼は尊敬を集めた。「リーダー」の出現だ。恐怖におびえる人々はリーダーにすがりついた。リーダーはまた、自分の権力を守るために、人々の恐怖心を煽った。怒りを煽り、ねつ造した。そうすることで、自分の地位はますます高まっていく。また 人間を階層に分け、序列をつけることを覚えた。階層支配は、集団の統治の効率を上げた。食料をはじめ、富の分配は階層ごとに序列がつけられた。こうして自分の恐怖感は和らいでいくのである。リーダーは、権力の魅力に取りつかれた。いつ蹴落され、殺されるかわからないという恐怖から権力欲が生まれ、これまた肥大化していく。宗教を利用することも覚えた。その教義を、自分の権力拡大、強化に都合のいいように書き換えていった。時を経て、人間集団は巨大化し社会となった。宗教は、集団統治のための「法」となった。教義には、注意深く、権力を守るための方法論が刻まれた。人間が持っている助け合いの心が「愛」だ。秩序が「道徳」だ。権力者は、宗教の表層を「道徳」と「愛」でくるんだ。実に巧妙だ。宗教は権力と結びつき、そして人々の人生の目的は宗教となった。人間は、人生の多くの時間やエネルギーを宗教のための尽くすことになる。限られた生活資源を集団だけで独占するための排他性も同時に備え持った。歴史上これら人間集団の営みを「文明」と呼ぶ。


戦争の装置は出そろった。この間、恐怖の観念はどんどん増幅していく。人間は最初、自分の死を恐れて恐怖の観念を持ったにも関わらず、恐怖の観念は肥大化し、ついにそれは人間個人の死の恐怖以上の大きさになってしまった。人間は、自己の属する集団を守るため自分の命を投げ出すようになってしまったのである。本末転倒も甚だしい、決定的なことが起こった。兵士の出現である。しかし人間集団は彼らを英雄とあがめた。それは、人間個人の深層心理に刻まれた恐怖が社会全体でシンクロナイズした証拠だ。結果、兵士が、集団のリーダーとなる時代が続いた。

宗教の名のもと多くの戦争が起こった。宗教は人生の目的であるから、人々は殉教という死を選んだ。為政者であるリーダーは、人々の潜在的な怒りのエネルギーを掻き立て、恐怖心を煽り、宗教の持つ排他的な力を使い、国家という暴力組織を作り上げた。そして、正義の名のもと他の国や地域を侵略した。国家に尽くし、命をささげることが英雄視された。排他性は、同じ人間を数百万人、数千万人殺しても良心の呵責さえ覚えないまでに高められた。この排他性は、道徳や愛といった価値よりも高いものであった。今までに起こった戦争は、勝ち負けと関係なく、例外なくこの図式で行われ同じ構造を持っている。国家は人格を持つかのように恐怖におびえる存在である。世界の生活資源は、いつの時代も潤沢ではない。常に格差がある。国家はこの国家間格差に耐えられない。国家の言う「正義」とはこの格差是正のことで、基本的に侵略を意味する。国家間に法や秩序は存在しない。弱肉強食の世界だ。そのことを世界のリーダーは知っている。戦争の勝者が歴史を書き換えるだけであり、本当の真実は語り継がれない。戦争に負けることは「悪」なのである。戦争では、勝負と正邪は混同される。


残念ながら、今も世界はその延長線上にあるとしか思えない。通常、人間は自己の意識の中では理性の皮をかぶっている。そして 人前ではポジティブな感情である「愛」や「道徳」を語る。しかし、何かをきっかけに「怒り」が噴出し、恐怖におびえる。人間は原始の時代にDNAに刻まれた深層心理から湧き立つこの恐怖観念を抑えきれない。それが、理性の抑制を振り切り、他の人の恐怖心や怒りの感情とシンクロナイズしたとき戦争が始まる。戦争とは人々の恐怖心が組織化されたとき起こるのである。なぜかその瞬間、すべての理性的な論理が破滅し、価値が逆転し、怒涛のカオス状態に陥る。怒りや恐怖の噴出に対する「理由」はすべてリーダーがねつ造し、後から人々に提示してくれる。常に自分たちは、被害者であり、それは正義であったと。これが、人間社会において、戦争が繰り返し発生し、反省しても無くならない本当のメカニズムである。


万里の長城は数千キロにおよぶ巨大な建造物で、人間の恐怖心の具現化とされている。しかし、現在 各国の核兵器保有数は、地球全体を何度も破壊できる規模にまで巨大化している。人間社会の恐怖の増幅現象は今もまだ続いているのだ。ひとつの国家を守るために地球を何度も破壊できる武器が有効なのか??恐怖の観念はこんな簡単な理性でさえ破壊している。歴史的にみて、理性で感情をコントロールできない人間集団が、これまた技術的に制御できない核の力を持ってしまった。その状態が、あたりまえになり思考停止に陥っている。銃が悪いのではない、引き金を引く人間が悪いと言う。しかし、今は銃の安全装置が外され引き金に指がかかっている状態だ。リーダー一人の恐怖心が臨界を超えたときその引き金が引かれ、瞬時にしてこの地球は破壊され無くなる。これは比喩やSFではない。物理的に地球が無くなるということだ。何万年も生き抜いてきた人類全員が、一人の人間のたった一瞬の気の迷いで無になるということだ。どんな正義も崇高な精神の理由づけも、そして宗教も全く意味のない無に帰するのだ。過去の繰り返し行われた戦争の歴史を考えると、確率論的にほぼ100%近くそれは現実化する。唯一歴史と違うところは、それが起こればもう人間はそのことを反省することもできないということだけだ。地域紛争やテロは核問題と切り離して論じられることが多いが、「恐怖心」と「怒り」という切り口では、構造は全くおんなじに見える。恐怖の観念という怪物が一人歩きし人類を食ってしまうということだ。国家が人格を持つとすれば、彼は潜在意識の中の巨大な恐怖観念によって精神を蝕まれている。重篤な精神疾患にかかっている言わざるを得ない。そして、、、彼は、自殺寸前である。


人間は大人になると青い野菜もおいしく食べられるようになる。理性的な知恵が本能的な恐怖に打ち勝つことは教育や訓練により可能だ。恐怖感は制御可能だ。今はそう信じるしかない。

posted by kogame3 at 11:58| Comment(0) | 歴史認識